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返信が毎回遅い友人について

回答数回答 3
有り難し有り難し 91

ラインが既読になっているのに、返信が毎回4〜5日後、時には1週間後にくる友人がいます。

返信がくるときは、必ず頭に 返信遅れてごめん と打ってきます。
ごめんと毎回言ってくるにも関わらず返信が毎度遅いので悪くもなんとも思ってないんだろうな、、と不快にいつも思ってしまいます。

こういう人なんだからしょうがないと諦めて付き合うべきでしょうか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

 私は中学・高校時代に、遠くに引っ越した友人と文通をしていた事がありました。月に一度程度の交換でした。
 昔は月に一度の連絡で別に不便も感じなかったのにねぇ。逆にそのゆっくりがワクワクでした。今はすぐ返事が欲しくなっちゃう。来ないと不快を感じるほどに。せっかちな世の中になりましたねぇ。

 文章を考えたり書いたりするのが苦手な方もいます。そんなゆっくりが楽しめるようになると良いですね。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

即答するにはエネルギーが必要

即答・即返事するには、エネルギーが必要です。
日々の生活の中では、色々と考えなきゃならないことが他にあります。
即答するためには、それらをさしおいて返事したくなるようなエネルギーが必要です。

即レスしたくなるほど興味深い内容であったり、言いたいことが次から次にあふれてくる状況であるなら別でしょうけど。

たとえば、私は、あまり行きたくないけど行った方がよいような会合に誘われたとき、即返事できなくなります。

その友人は、あなたに即回答はしたくない(ちょっとめんどくさい)と思っている、しかし回答しないのも悪いなという感じで、遅い回答になる。
相手にとってあなたは、その程度の友人なのです。
あなたは、上から目線で「回答が遅い奴」と、相手が悪いかのように思うのではなく、
「私が相手にめんどくさい回答を求めているのかもしれない」と、謙虚になった方がよいかもしれません。
それができない場合、あなたには、ほんのわずかながらストーカー的な要素があるかもしれません。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

みんなそれぞれ自分のメールルールがある

私はあまりラインやメールが得意ではありません。
指が太いので返信も時間がかかります。
時間をかけて返信したのに会話を重ねてくる人には「だったら電話せいや」とイライラ小宇宙が高まります。
メール派の人にとってはそれが当たり前でもそうでない人たちにとっては電話の方がスムーズだと感じる人もいます。
どちらもお互い自分ルールの押し付け合いです。
昭和初期世代の人にとってはメール文化はまだまだ浸透しません。
そういう方々に「なんでメールをしないのか」「返信おそい」といってもそれは自己中心的なモノの見方というものです。

仏教とは、人間のこの「自己中心的なものの見方」というものを改めるべきことを説いています。
自己中心的なものの見方を正してくれる人というものは少ないものです。
世間の人はみんな自己中心的な人が嫌いだからです。
今回のことをきっかけに相手のことを変えようとするのではなく、自身の自分を軸としたものの見方というものが無いかどうかの点検をしてみましょう。
この質問・この問題の根底にあるのは本当は「そこ」なのであろうと思います。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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