納骨、供養について
この度46歳の若さで実姉が他界しました。葬儀は東本願寺の系列のお坊さまにお願いし、お経と、法名をいただきました。私の住む近くに系列のお寺さんがある事を教えていただきそちらに納骨、ご供養お願いするつもりでした。ところが母が学会員という事で、三重県のとても不便な学会員専用の納骨堂に納める、法名は処分すると言い出し、今母と姉の遺骨の件で分裂しています。宗派不問の永大供養のお寺さんもあるようですのでそちらも当たってみようと話しましたが、聞く耳を持ちません。現在遺骨は母の家に安置してあり、私の家族、友人姉の恋人みんな近い方がいつでも行けるし、お母さんもいつでも会いにいけますよ、三重は遠すぎますよ、と、説得してくれましたが、五万円で永久に見てくれるし、私はもう嫁に行ったのだから、母と姉の問題だと譲りません。母が入る時にその三重に姉の遺骨も一緒に安置できるようにするから、それまでは近くでいつでも行ってあげたい、と言っても全く耳を貸しません。分骨も拒否されました。遺骨がなくてもお寺さんはご供養してくださいますか?また、法名も新しく、黒のお位牌に掘っていただかないといけないのですが、それを処分するなんて私には考えられません。学会員は母だけで、私たち姉妹は学校を出てからは無宗派です。
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お骨は遺品の一つにすぎない
そもそも、遺骨に執着するのも苦しみの原因になります。
お骨は、数ある遺品の一つにすぎないのです。
お骨に魂とかが宿っているわけでもありません。
ですから、お母様の好きにさせてあげても良いでしょう。
お釈迦様や、りっぱな王様など、尊敬すべき人(その人の人格を見習うべき人)の遺骨については拝むべきですが、我々一般人の遺骨は、べつにどうでもよいのです。
現在の火葬場の火力では、本当は、骨まで灰にする能力があるらしいです。
いっそ骨まで灰にすればよいのにと、個人的には思います。
宗教は争いを生むものであってはいけない
宗教とは、誰もが救われるもの。他を批判したり、争いを起こすものであってはいけないと思います。信じる先に救いがあれば、どんな宗教も間違いではないと思います。
お互いに認め合えるそんな世の中になって欲しいですね。
お母様は一部正しい
まず、あなたは婚家先の人間であり実家とは他人になります。嫁ぐとはそういうことだと正しく理解していただきたいと思います。
お姉様が生涯独身であったのならばお母様の仰る通りお母様とお姉様の問題であり、他人であるあなたが口出しすることではないのです。
結婚とはそれだけ重い事実なのだということなのです。