素朴な疑問です。
葬儀後の気持ちの持ち方についてアドバイス頂けますでしょうか。先日祖母の葬儀がありました。
私の父の兄弟に認知症で被害妄想の酷い、また衝動的な行動をする方がいます。口も達者で歩くことや身辺のことはなんでもできます。
その兄が認知症だと分かる前に私の家に来てお前の父さんをブタ箱にいれるなどと言ってからトラウマになっています。
葬儀中もウロウロとしたり、仮葬場ではいきなりおりんを鳴らそうとしたり、いつ暴れるかとても怖かったです。
そのこともあり葬儀に集中していても何をするんだろう、などとソワソワして気が抜けませんでした。
認知症だということはわかっています。
だけど四男の父が兄弟がなにもしないからと俺がやらなきゃと全て背負ってやっているのに、酷いことばかり言う叔父さんが嫌で仕方ありません。
どうしたらいいでしょうか。
自己嫌悪です。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
当たり前の感情では無いでしょうか。
僧侶が、言ってはいけないのかもしれません。少なからず、経験した方もおみえだと思います。
おじさんは、飲酒もなさったので無いでしょうか。
今、認知症の方が、非常に多いです。
私の親族も、先日、その様に診断され、車の運転も、辞めさせました。
コテツさんは、どうぞ、精一杯 お父様を、手助けしてあげてください。
申し訳ありませんが、おじさんについては、そのご家族に、責任の一旦が、あるのでないでしょうか。
その事について、伝えないといけないのかもしれませんね。
でも、会うのは法事の時くらいに、少し距離をおく事も、ひとつかもしれませんよ。
煩悩と戦う
病人や障害者が、その病や障害ゆえに、他の人が理解しにくい言動をしてしまうことは、仕方ない。
それはあなたも充分ご理解されているようですね。
理解できているなら、もはや、戦うべき敵は、自分自身の感情(煩悩)だけです。
叔父さんの言動に感情をかきみだされて理性を失ってしまうと、高齢者虐待などにつながる恐れがあるのです。
ひたすら、ひたすら、あなた自身の欲・怒り・怠け・プライドといった煩悩と戦うしかないのです。
叔父さんをギャフンと言わせたい「欲」、叔父さんに腹が立つ「怒り」、
トラブルの後始末や余計な世話をしたくない「怠け」、叔父さんにひどいことを言われたくない「プライド」と、
戦うしかないのです。
その戦いの助けになるのは、慈悲です。
叔父さんの幸せや、叔父さんの悩み苦しみがなくなるように願う気持ちを無理矢理にでもイメージする方がよいのです。
背負ってきた業(ごう)
認知症になるのも、四男で葬儀を出すのも、その一族に生まれたあなたにも皆、過去世から背負ってきた業(因)があり、その報い(果)を受けているのです。
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嫌なこと辛いことはすべて過去の自分が撒いた種が原因ですから、この苦しみから逃れることは許されません。
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仏教は因果の道理に万に一つも例外を認めません。ですから奇跡も偶然も完全に否定します。
「嫌だなあ」と思いながらも堪え忍ぶ、それが生まれてきた目的なのです。
堪え忍ぶ目的を一つ一つ達成して行くならば必ず好ましい結果を得られます。