慈悲のある人になりたいです。
私は、言葉で愛情表現をする方だと思います。
反対に現在、お付き合いをしている彼は態度で愛情表現をします。
付き合っている期間は2年半になります。
人それぞれ、愛情表現はあります。
彼の場合は、忙しい時間の中から私と一緒にいる時間を作ってくれることや楽しくないと思うような話も腰をおらず、最後まで聞いてくれます。良いところを上げるときりがありません。
これ以上、彼に求めるものはないと思っているのに落ち込んだときや彼の気持ちが分からなくなったとき、言葉で愛情表現をしてほしいと思ってしまいます。
そう考えるのは彼のことを考えすぎてしまっているからだと思い、本を読んだり趣味の楽器を弾いたり他のことに没頭しますが、声を聞いてしまうと私と同じような気持ちになってほしいと願ってしまいます。
同じ思いを求めず彼を好きでいたいです。
見返りを求めず彼を支えたいです。
慈悲のある人になりたいです。
慈悲のある皆様のご意見をいただければと思い、質問しました。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
慈悲
坐禅して己を滅すると慈悲に溢れます。
己を滅するとはこの自分が消滅するとかじゃなくて、己意識・自我意識・自己意識・自分自分したエゴエゴ意識・この自分を過剰に自分だと思う意識が滅することです。
そうすると人のコトでもわがことのようになるのです。
対立意識が滅するからでしょう。
スポーツ選手で勝った瞬間にいやみったらしくガッツポーズをする方がおられます。
仏教的にはあんまり良しとされない行為です。
「私が!おれがっ!自分がっ!」っていう気持ちはない方がいいのです。
私濃度が強い人ほど自と他の境界線が分厚くなります。
わたし意識をテーマになさってください。
それが過剰に働いている時は人とも対立するものです。
それが忘じられている時は相手にも自然に尽くせるものです。
慈悲とはつまり作るものではないということでしょう。
仏教の慈悲
はち様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
仏教における慈悲とは、この輪廻の苦に存在している全ての衆生に対して、苦に喘いでしまっていることへの憐れみと、どうにかその苦を無くすことができますようにとして、皆に平等に向けられるものを目指すところとなります。
つまり、はち様の彼氏も、極端に言えば、地面に這う蟻も、同等、同様に、この輪廻において苦しんでいることに対しての憐れみを向けて、救いたいという心を起こすことであります。
ポイントは、仏教で言うところの「同事」として、相手の事を自分の事として同じように引き当てて考えていくということになります。仏教の場合、その相手の対象は、平等の一切衆生を目指して参ります。
まあ、少し彼氏さんのことを好き過ぎて、それがやや執着に近いような感じになってしまっているのかもしれないですね。
今のはち様においては、彼氏さんと同じように考えられるような人がいないという感じでもあるのでしょう。
それはやや偏り過ぎているというところが危惧されます。
私たちであれば、例え愛する人への慈悲と同様に、上述のように蟻へも平等に慈悲を向けていけるかどうかが問われるところとなりますが、はち様はまだまだそこまでではなくても、家族と同様ぐらいの慈悲としていけれましたら、少しは偏りを無くすことができるようになるのではないだろうかと存じます。
川口英俊 合掌
男性と女性では脳の思考回路が違うそうです。
女性「私のこと愛してる?」
男性「言わなくてもわかるだろ!」
という感じでケンカになったり。
ネットで「男 女 愛情表現」で検索してみると、たくさんの記事がヒットしますよ。
是非調べて読んでみてくださいね。
大切なことはお互いの理解と歩み寄りかな?
これからも彼と仲良くしてくださいね。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございました。
安穏寺 (天岑寺) / 丹下覚元様
慈悲とはつくるものではないという言葉にはっとしました。
私は、自分の意識を持ちすぎていると感じました。
過剰に自分を自分だと思うことを少なくしていくようにします。
ありがとうございました。
岩瀧山 往生院六萬寺 / 川口 英俊様
彼への執着はあると思いました。そのわりに大切にできてないということも知りました。冷静に判断していただきありがとうございます。
彼に対する気持ちが偏りすぎていると自分でも感じることがあります。彼以外のことも家族と同じような気持ちで接することのできるよう意識していきます。
ありがとうございました。
圓常寺 / 三宅 聖章様
男女の考え方の違いについて調べてみます。
彼と仲良くしていくことのできるように頑張ります。ありがとうございました。