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浄土真宗通信教育に関して

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有り難し有り難し 60

はじめて質問させていただきます。
ご回答頂ければ大変嬉しく思います。

私は実家が浄土真宗本願寺派の門徒でありまして、最近になりもっと浄土真宗のみ教えや、仏教のことを学んでみたく思うようになりました。

普段なかなか私自身、浄土真宗の門徒でありながら、家でお勤めをしたり、念仏を唱えたりということが出来ていないのが現状です。

そこで、浄土真宗本願寺派の通信教育で仏教や浄土真宗のみ教えを学習すれば、少しでも私自身の信心が芽生えてくるのではないか、浄土や仏さまを信じる気持ちも出てくるのではないかと思い、この度通信教育講座を受講しようかと考えてる次第でございます。

そこで今回の質問なのですが、通信教育講座で学習することによって、信仰心が芽生えたり、お念仏を唱えたいという心持ちに変わったりするものでしょうか?
それとも学習はやはり色々な知識を詰め込むだけで、そこからは信仰心というものは芽生えてこないものなのでしょうか?

私自身もっと信心をもって、日々の暮らしをあまり悩み過ぎることなく歩んで行きたく思っています。

どうか皆様の良きアドバイスを頂ければ幸いに思います。よろしくお願いいたします。

2018年5月8日 19:40

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私も、中仏の通信教育で学んだ者として。

それは、やってみないとわからない。

ただ、学習だけでなく、いろんな出遇いもありました◎
多くのお育ての上に、私が こうして願われて、いるのだと気づけました◎

阿弥陀さまと向き合って、自分と向き合って、大切な生きる道に出遇えたと思っています。

私も、中仏の通信教育で学んだ者として。
あなたとの お出遇い、嬉しく思います。
いつか、一緒に、本願寺で手を合わせるご縁があることでしょう。

楽しみにしております(﹡´◡`﹡ )

2018年5月8日 19:51
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有り難し
おきもち

はじめまして(*^^*) 中田みえです。 住職として、中学生の息子の母親...

阿弥陀様の救いはいつでもどこでも

若葉さん、初めまして。
私は挫折組…の観点からお話しさせて頂きます。
結婚して、お寺で接待する機会があり「何も知らないのは」と思い、通信教育に申し込みをしましたが、私には合いませんでした。
教科書は、初心者にとってはわからない言葉の羅列。「そんなわけないじゃん」と思うような…おとぎ話のようなお釈迦様と阿弥陀様の表現もあり、勉強をやめました。
ですが、得度で先生方の講義を聞き、「もっと勉強したい」と思い、教師・布教使の資格までとらせて頂きました。
その過程で「そんなわけない」が、この解釈だと理解出来る。おとぎ話が、これを伝える為の方便だったと理解出来る。
仏教は、誰かのサポートがないと理解出来ません。「自分のものさし」で「分かった」気になっても、「親鸞聖人」の捉え方を学ばないと、自分に都合の良い勉強にしかならないと思います。
実際に、講師がいて学ぶ。分かりたい知りたい気持ちが、私を育ててくれました。
滋賀県も、真宗が盛んですので、お寺の勉強会や壮年会や門徒推進委員会などで、体験できる学びもあります。
京都の中仏に通えれば一番ですが、通信教育だけでは(スクーリングの回数)つまらないものに終わる可能性もあります。もちろん、通信教育で、誤りなく理解出来る方もおられますが、私は無理でした(^^;
読む本や解説本すら、きちんと選べていなかったことを今も覚えています。
「○○先生の解説は、本願寺派とは少し違う。」自分が、勉強してると思っていたことが、少しずれていたと知った時、すごく切なくなりました。
色々な研修会に参加し「このお坊さんは素晴らしい」と思える方に出会えれば、一番です。
自分のなかに「信心はわからないけど、この理屈は分かる」という筋を通せば、通信教育の教科書を見ての理解度が違うし「わからない。おかしい」と思うところも絞れます。
信心を素直に喜べないのが「私」です。信心なくとも学べます。楽しい、知りたいと思った時点で、私は信仰心があると思います。
一緒にこのご縁を喜ばせて頂きます。ありがとうございます😊

2018年5月9日 12:53
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有り難し
おきもち

普通のOLから、結婚をきっかけに仏教に興味を抱きお坊さんになりました。 ...

「浄土真宗」問答一覧

浄土真宗の生き方について

お世話になっています。 最近、結構普通に使っていたのですが、気になる言葉を見つけました。それは「自力」と「他力」です。 僕は、この二つは捉え方の問題ではないかと思いました。 まず、大前提として宇宙は縁という繋がりがあり、主体的な実体はありませんよね。つまり、例え歩くという行為ですら、「歩かせてもらっている」わけです。このように考えるのが他力です。 一方の自力は、「自分が悟った」「俺が努力した結果だ」などと、全てが自分の力でやっていると思っている人達なのではないかと考えています。つまり、大前提に「自己中心性」があるわけです。 悟った→自力 悟らせてもらった→他力 生きている→自力 生かされている→他力 もう1つ、観点を変えた考え方として、他力=あるがまま、自力=思うがまま(自我意識)があるとします。 こういった解釈はどうなんでしょうか? これは少し極論かもしれませんが、仮に地獄という苦しい所にいるとします。 そこから脱出しようとするのが、自力です。あるがままの状態なんだから脱出する必要はないと考えて脱出しないのが、他力です。 そうなると、他力の生き方は人間のはからいが一切なく、どうしようもない気がします。生きる上ではやはり自力のはからいも重要だと思うのです。 それとも、自力や他力という言葉にあまりこだわらない方がいいんでしょうか?

有り難し有り難し 10
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浄土真宗と曹洞宗の天国とは

こんにちは。 最近祖父が亡くなり、葬式も終わりました。 私は結婚していて、実家は浄土真宗、母方の実家は曹洞宗、嫁いだ先は禅宗です。 今まで浄土真宗のお葬式や法要などで実家の祖父母を供養してきましたので、浄土真宗のお坊さんの話をたくさん聞いてきました。 そのうちに、浄土真宗の考えに安心できるようになりました。 今回亡くなったのは曹洞宗の祖父です。 浄土真宗だと亡くなってすぐに浄土に行けるそうですが、調べると曹洞宗だと山を越え川を渡り裁きを受けて長いことかけて六道に分かれるのでしょうか? 今祖父はどこにいるのでしょうか。 49日までは祖父は修行をしているのでしょうか。 足も悪くなっていたのに山を越えて険しい道を一人で苦戦しながら行っているのではとすごく心配です。 寝たきりのままなくなった人でも、ちゃんと天国まで歩いていけるのですか? また、宗教が違っても天国で会えるのでしょうか? もう1つ引っかかるのが、私はお菓子の仕事をしているのですが、たまに祖父母が家に来たときにケーキがあれば出していましたが、最近は来る回数も減りあまり食べさせてあげられませんでした。 なので、シフォンケーキを焼いて棺に入れたかったのですが入れられませんでした。 クッキーだけは入れられたのですが。 そこで今はシフォンケーキは祭壇の前にお供えしてあるのですが、祭壇や仏壇にお供えすれば食べてもらえるのでしょうか。 もっと祖父にお菓子を食べさせてあげたかったです。 子供の頃はたくさん遊んでもらったのに、大人になってからは愛想が悪く、笑顔もあまり見せられませんでした。 曾孫には会わせてあげられたし、曾孫とは元気なときには楽しそうに遊んでいたのでそれが救いですが。 今からでも祖父に何かしてあげたいです。 亡くなってとても悲しいのに、普通にお腹が空いたり、普通に生活できてしまう事に罪悪感を感じ辛くなります。。

有り難し有り難し 10
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浄土真宗の自分の解釈について間違ってると言ってほしい

ある一つの疑念が強迫観念のように頭の中に張り付いていて、阿弥陀仏の本願がうまく聞けないのです。 それは「18願によって信心決定した者は救われるが、信心決定したものは諸根が具足する」というものです。 荒唐無稽かもしれませんが、第41願に信心決定したものは諸根が具足するととある本に書いてあって、それを見た瞬間諸根が具足しないかもしれない自分は救われないかもしれないとショックでした いろんな本を読んだ結果、これは初住以上の菩薩のための願だとか、聖道門の菩薩を引き入れるための願だとか、他の訳では仏刹(浄土)と書かれてあるから、娑婆世界には関係ないとか、頭では納得できて、そっちのほうが正当な理解なんだろうな、と分かるのですが、頭の片隅に「体の弱い自分は救われないかもしれない」というのが絶えず渦巻いています 自分でも自分のこの疑念は完全に間違った教義理解だとは考えているのですが…。 「18願によって十方衆生の信心決定したものは救われる」「信心決定したものは諸根が具足する」「よって諸根の具足していないものは信心決定していない」「諸根の具足していないものは救われない」 という自分の誤った疑念を間違っていると言ってほしいです。 同じような投稿を前にもしたのですが、専門家のお坊さんに「それは間違ってるよ」と言ってほしいのです。わがままですみません 自力で変な解釈をしてしまう自分に嫌気がさします…。 こういうのを「自力のはからい」というのでしょうか 早く自力をからせたいです

有り難し有り難し 58
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どうしても浄土真宗のお経をネガティブな解釈してしまう

どうもこんばんは 以前からの質問を見ていただければ分かると思うのですが、無量寿経の41願について「信心決定したものは諸根が具足する。だから諸根の具足していない者は救われない」といった解釈に気を取られて、ずっともんもんとしておりました それで、ハスノハでお坊様の意見を聞いたり、本で調べたりしたところ、「その解釈ではみな救うと誓っている18願の誓いが守られないからそれは我々に関係のない菩薩様への願だ」「十住以上の菩薩様は三悪道に堕ちることがないので、浄土を願わないものもいる。そうした聖道門の方々を浄土門へ引き入れるための願」「諸根ケツルというのは念仏という大道を知らないこと。哲学者や聖道門の方々も名号を聞くことで諸根具足することができる」「42願~48願を見ると、他方国土の諸菩薩というのは名号を聞くとただちに三昧を得るような方々であるので、われわれには関係のない願」「そもそも障害というのは実体的なものではない」「身体に不自由がないというのは、浄土へ行くのに不自由がないこと」という頭では合点できるような説明がたくさんありました。ハスノハの皆さん、ありがとうございました。 けれども「けれども」なんです…。「もしも」41願が念仏者が諸根具足するという願だとしたら、体の弱い自分は救われないかもしれない…。と、この「もしも」が頭から離れないのです。おそらくこれは、阿弥陀様への疑いと、自力のはからいでもって、このような状況になっているのだと思います。 この「もしも」というのを消す方法はないでしょうか…。そんな上手い方法はないとは思いますが、なんか愚痴みたいになっちゃいました、すみません。阿弥陀様を疑ってしまい、お経をネガティブに解釈してしまう自分がいる。それが悩みです。

有り難し有り難し 45
回答数回答 3

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