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諸行無常とは言うけれどは

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有り難し有り難し 88

起こってしまった出来事はなかった事にはならない。
そして苦しみと後悔と怒りがふとした拍子に心に滑り込んできます。
これから一生このままなんでしょうか。
いつまで戦い続けなければいけないのでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

幽霊の三大原則

”いつまで戦い続けなければいけないのでしょうか”
「幽霊の三大原則」ってご存知ですか?
①だらりと垂れた手 ②ボサボサの長い髪 ③足がない

①は、もっともっと欲しい、まだまだ欲しいというないものねだりの象徴
②は、すでに終わったことにいつまでも執着する様子の象徴
③は、地に足がつかない生活を送っている象徴

ところで、あなたはいったい何と戦っているのでしょうか?
ありもしない、居もしない敵と戦っているつもりになっていませんか?

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無意味な諸行無常と救いの諸行無常とがある。

国語の教科書や辞書や内容の薄い仏教書に書いてある諸行無常というのは嘘だと思った方がいいと思います。私も長年つかまされて騙されてきました。
よくあるのは「この世は絶え間なく変化している」「永続するものは何もない」「桜は散る、紅葉も散る、そしてわが身も散る」という何だか学校の理科とか科学・化学めいたものだったり、虚無的なもの、ネガティブなものばっかりです。お釈迦様はそんなネガティブ思考、厭世思考だったのかいっ(゜o゜♯)って、突っ込みたくなります。
本当の諸行無常とは「救い」の法則です。
ハスの花が泥の沼から育って前の色に染まらず、いつもきれいな花を咲かせています。
人間は「事実の世界」と「思考の世界」を生きています。
事実の世界は昨日は雨だった、今日は曇りだ、そして今から晴れてきた…という思う前からある世界。頭で思った思考の世界はそこに意味をつける後からの世界です。
天気がくもりで陰鬱で嫌だなぁとか。
好き嫌いを言ったり、悪く考えたり、自分を傷つけたり、ネガティブな事を言ったりする。
つまり諸行無常という仏教語も解釈ひとつ間違えるとものすごくネガティブな意味になってしまってお釈迦様の説かれたやさしい本当の諸行無常の意味をはき違えてしまうのです。  
今の私はこのままなんだと思ったり、悪く評価したり、ネガティブな思いを塗りたくるのはご自身の自分流の思い方というものではないでしょうか。
人間って心というディスプレイで思い起こしたことの色に染まっちゃうのです。
悪いことが続くと、つい関連動画的に悪いことばかり想起しやすくなるものです。
自分なんてこんなもんだ、愛されてない、不運た、不幸だ、どうせこのまんまだ、と考える人は一生そのまんまです。
それよりも、自分が思ったことで自分の心を支配させていたのか。そうか、じゃぁ、悪く考えることをやめて、心をネガティブな思いに染まらせないように処するべきだ、と決意して心の負のループ、習慣をやめてしまうことです。
この心身は願わずとも頼まずとも真新しい新鮮フレッシュ産地直送の一番新しい心を生きています。そこに気づくことが仏道修行です。
心は選択したがります。つい習慣的な方を選択したがります。
苦しみを断ち「たければ」そちらには「いかない!」「いかせない!」と決意して、自分の自分流の負の思い方と決別することです。分からなければお電話ください。

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おきもち

心は無常

仏教では、心は無常だと考えます。
テレビでは、毎日ニュース番組をやっています。
しかし、朝から晩まで全てニュース番組ではありません。

今のあなたは、「これから毎日ニュース番組を見せられるのか」と悲しんでいるようなものです。
しかし、ニュース以外の番組も毎日、しかもニュース番組の何倍もの時間放送されている。

心は無常とは、いつかニュース番組のない日が来る、という意味ではありません。
毎日ニュース以外の番組もちゃんと放送されている、という意味です。
暗い過去を思い出す時間は、1日のうち何時間もありますか?
実際には、それ以外のことを考えている時間の方が多いのではないですか?

瞬間瞬間に変化して浮かんでは消えていく心に、もっと細やかに気付きましょう。
心には、欲・怒り・怠け・プライドの煩悩に支配される時間もありますが、煩悩に支配されていない時間もちゃんとあります。
仮に、毎日不幸でも、毎秒不幸ではないのです。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

私は過去に執着していた。過去を思い出しては悔やみ涙を流していました。しかし心は沈んだとしても次の瞬間には別のことに奪われる。この後悔はうつろいやすい心が見せる幻だった。
これからはこのうつろいやすくいい加減な心をしっかり見つめて整えていきたいと思います。
ありがとうございました。

「諸行無常」問答一覧

考えない方が楽だけどこれで良いのか

いつもお世話になっております。 以前から死の恐怖について相談させていただいておりました。 最近は仕事もプライベートもそれなりに忙しく充実しております。体力的にも時間的にも死の恐怖に囚われている時間は少なくなり、心安らかに過ごしていました。 ですがふと、 やっぱりこの世は諸行無常で、今の幸せや充実もいつか無になり、私は私を自覚できなくなり、死んだあとは未知でしかなく、「死」という未来が待っている以上この先の人生のエンディングは絶対的な絶望なのだ、と 以前と同じ恐怖が強くよみがえりました。 日々の幸せに夢中で死を考えなくなり、「まあでも、これが今の私なりの死への向き合い方なのだろう」と甘く捉えていましたが、 結局、恐怖は忘れていただけで、死ぬ事実も絶望感も変わらずに私の中に存在します。 たくさんのお坊さんにご回答をいただき積極的に「心安らかに死んでいける心持ち」を探し求めても、知識だけが増え頭でっかちなまま、結局は恐怖も絶望感も拭えぬまま、不安な心のままです。 お坊さん方の視点から、私は今後、どのように死と向き合ってゆくのが良いと思われますか。 積極的に怖さに向き合い死を学ぶショック療法のような形か(ただ、もう死の恐怖に面と向かって辛い思いはしたくないという甘えも自分の中に今はあります)、 それとも自然の流れに身を任せて死を忘れたような日々を過ごすのか(そのうち死を自然と受け入れられると信じて)、 はたまた仏様に全てを任せ不安な心持ちのまま生きてゆくならば、まだ心の底から仏様を信じられない愚かな私の、実在する「不安な気持ち」をその都度「大丈夫」と躱していけばそのうち信心が得られるのか、など。 もちろん最終的に何を選択するのかは私が決めるべき問題と思っておりますが、 なんだかもう、自分でもどうしたら良いのか分からなくなってしまったため、アドバイスをいただけたらと思います。 お忙しいところ大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 5
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過去に戻りたいと思ってしまい辛い

20代社会人です。過去に戻りたいと思ってしまい辛いです。 学生時代、私は恵まれておりかなり楽しい思いをさせていただきました。アニメが好きで同じ趣味の友人ができ、学校ではアニメの話で盛り上がり休日に一緒にアニメのイベントに行ったりと充実していました。しかし社会人になり、学生時代の友人たちは趣味が変わったり、仕事の関係で引っ越したりと次第に疎遠になりました。 もちろん、今が辛いとかつまらないわけではありません。社会人になりお金が増え海外に行ったり、車を運転できるようになったり、新しいことを学んだり、学生の頃はできない体験もできるようになりました。 しかしながら、あの頃の楽しかった学生時代を懐かしく、戻りたいなあと辛くなることが時々あります。学生時代に好きだったアニメを見たり曲を聞いたりすると当時の思い出が蘇ってきて苦しくなります。もう戻れないんだ、と思うと本当に心臓がギューっと握り潰される感覚になります。 禅に関する本を読み、そこでは「何事も移り変わる」「この世は諸行無常である」と学びました。「そうだ、人間関係も、環境も変わるのが普通だ。過去に拘ってはダメだ」と考えるようにもなりました。しかし頭ではわかっていてもやはり過去が輝かしく苦しくなってしまいます。 このような時、過去をどのように捉えて前を向けばいいでしょうか。アドバイスをいただけると幸いです。

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生家がなくなる

お忙しいところ恐れ入ります。 生家がなくなる寂しさについて、乗り越え方や考え方のヒントを頂戴したくご相談させてください。 この度両親が定年退職し、まったく縁のない地方に移住することになりました。 新居も購入済みで、本人たちは第二の人生ということでワクワクしているようです。 当然ながら実家はそのうち売りに出され、私には帰る実家や地元に帰る意味がなくなってしまいます。 地元が大好きで心の拠り所としていた私にとって、生家がなくなることは思っていた以上に辛く、なんだか宙ぶらりんになるような心地で辛いです。 (今は結婚して居場所もあり幸せではありますが、自分のルーツが無くなる感覚がとてつもなく寂しいです) 親本人たちが幸せなことが一番ではありますが、毒親で振り回されていたこともあり、「また振り回されるのか…」と思ってしまう面もあります。 いずれ年老いて親は先立ち、みんな遅かれ早かれ実家はなくなるものだと思いますが、まだアラサーです。 周りは慣れ親しんだ実家に帰って安心することができるのに、私はできない。 帰る場所が物理的に消える。 大事な柱を一本失ったようで、どうにも寂しく、内心受け入れられません。 実家や地元に対する執着だと思いますが、仏教ではどのように考えて気持ちを手放すのでしょうか。 ヒントをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

諸行無常、生きている人の心のあり方

亡き母は、ある事業を運営していましたが、まだこれからという時にがんがわかり、あっという間に亡くなりました。 子供の頃から情熱的に活動していた姿を見てきたので、どんなにか残念で、悔しかったことと思います。 私はすでに他の仕事をしていたこと、また、子供個人の幸せを願ってくれましたので、事業は継がず無くなりましたが、母の情熱、精神は忘れることはできません。 それから数年経ち、その経験は、自分の新しい仕事に活かしています。 いましんどく感じているのは、その業界でいわばライバル的存在だった事業が活動をしていることです。 その関係者とは、もと協力関係にありましたが、トラブルがあり、仲違いしました。気に入らない利用者は満足に面倒をみない等、自分勝手な事が多々ありました。 不誠実さを糾弾すれば、足並みを揃えないほうが悪いと。貸したものも返してもらえないままでした。母は不毛な争いを避け、思いやりを大切に、最後までこつこつ活動を続けました。 真面目に取り組んできたほうは追いやられ、力尽きてしまい、ずるいあちらはなぜいい思いをしているんだろう。そう感じてしまいます。 今でも時々夢に出てきて、むなしく思います。 利用している方々は悪意はないのでしょうが、付き合えるということは、自分勝手な人の集まりなのかも、と感じます。 事業に関わった多くの物品、思い出の品々も、捨てられず、そのままです。利用している方々のためにお譲りして、使っていただけたらとも思いましたが、あちらにお渡しするのも考えられません。 この気持ち、思い出、思い出の品々、 受け入れ方、消化の仕方、なにか手掛かりになるお言葉をいただけますと幸いです。

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無常というものにひどく虚しさを感じます

大学受験間近の受験生です。 文には至らない点があるかもしれませんが、ご了承ください。 私の受験が近づいていくにつれて、親も私も不機嫌になったり口論することが増えていきました。その度に毎度「昔(幼少期)に戻りたい。」「祖父母がまだ元気で、仲の良かった親戚たちと定期的に集まっていたあの頃に戻りたい。」など過ぎた温かい記憶に縋ってしまいます。悲しくなって、ふと目に入った私が幼少期の時に母がせっせと作っていたアルバムを見て、大好きな母からの愛を改めて実感しました。しかし、今目の前にいる母親は、私が絡めば絡むほどやっぱり不機嫌になって向こうを向いてしまいます。それがとても悲しいです。私に勉強してほしいのは十分わかっていますし、母も仕事で疲れているのもわかっています。自分の合格が一番の親孝行というのも分かっています。 だらだらと前置き失礼しました。私の最も不安なことは、上手く言えないのですが、時間が自分の周りの環境をゆっくり壊しているような気がする事です。 今までの家族の幸せだった思い出と全く同じ体験はできず、また、これからの人生体験する楽しいことが全て「楽しかった過去」に変わっていくことにひどく虚しさを感じます。 まだ子供のくせにと思われるかもしれませんが、無常というこの世であたりまえであるものが受け入れきれません。 私はやはり考えすぎなのでしょうか? 時間が経つということが怖くて虚しいものだとマイナスな考え方をしてしまいます。 無常観についてどう考えるべきなのでしょうか?

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「無常」について理解出来た気がするが…

初めて質問させて頂きます。長文になってしまい申し訳ございませんが、宜しくお願いします。 私は歴史が好きなのですが、とりわけ源平合戦が好きです。二つの氏族が覇権をかけて争う中での栄枯盛衰や、その過程での日本中を巻き込んだ争乱の数々。これ程までに歴史のダイナミズムを感じられる出来事は中々無いと思ったからです。 なので、先日神戸に行った際、一ノ谷の戦いの戦跡を巡ろうと思い立って観光し、道中、是非見たいと思っていた須磨寺に立ち寄りました。須磨寺には、宝物として平敦盛の武具や青葉の笛が置かれていることが有名ですが、これらを見た時、私は非常に大きな衝撃を受けました。 勿論、平家物語の「敦盛最期」は作中屈指の有名な悲話として、私も知ってはいました。しかし、それはあくまで「物語」としての認知に過ぎなかったのです。知識としては現実に起きた事だと知りつつも、現代とはあまりにもかけ離れた武士たちの世界観や壮絶な出来事の数々に、実感としては完全に物語上での出来事でした。 ですが、敦盛の遺品と、敦盛を殺した苦悩から出家した熊谷直実が、彼を弔うために書いた「南無阿弥陀仏」の掛け軸は、実際に寺にあったのです。 こうして、到底現実の出来事だと実感出来なかった源平合戦を、現実の出来事として否応なく突きつけられ、私は恐ろしくなりました。平家物語に登場し、様々な運命を辿った武将たちの人生もまた現実の物だと、同時に思い知らされたからです。 都での優雅な生活を捨て、戦いに身を投じる事を憐れみつつ奮戦して亡くなった者。戦いに勝利しつつも、哀れにも反逆者となり亡くなった者。戦乱の中で志半ばに自害した者。そして、熊谷直実のように出家した者。 また、源平合戦だけでなく、数々の戦争や動乱に人生を左右された無数の人々…。 歴史という大きな流れの中で翻弄されていく人々が現実に居たのだと、心から実感出来た時、歴史の中での個人の無力さと儚さに恐怖を感じ、平家物語が言わんとしている「無常」を、心の底から理解出来たような気がしました。 果たして、無常について理解出来たようなこの感覚は、悟りに近いような物なのでしょうか? 仏門に入ってもいない者が、軽々しく悟りなどと申し上げるのは気が引けるのですが、世の中に対する一つの見方が生まれたような感覚が不思議だったため、質問させて頂きました。

有り難し有り難し 5
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ