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諸行無常とは言うけれどは

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有り難し有り難し 91

起こってしまった出来事はなかった事にはならない。
そして苦しみと後悔と怒りがふとした拍子に心に滑り込んできます。
これから一生このままなんでしょうか。
いつまで戦い続けなければいけないのでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

幽霊の三大原則

”いつまで戦い続けなければいけないのでしょうか”
「幽霊の三大原則」ってご存知ですか?
①だらりと垂れた手 ②ボサボサの長い髪 ③足がない

①は、もっともっと欲しい、まだまだ欲しいというないものねだりの象徴
②は、すでに終わったことにいつまでも執着する様子の象徴
③は、地に足がつかない生活を送っている象徴

ところで、あなたはいったい何と戦っているのでしょうか?
ありもしない、居もしない敵と戦っているつもりになっていませんか?

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個別相談可能
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無意味な諸行無常と救いの諸行無常とがある。

国語の教科書や辞書や内容の薄い仏教書に書いてある諸行無常というのは嘘だと思った方がいいと思います。私も長年つかまされて騙されてきました。
よくあるのは「この世は絶え間なく変化している」「永続するものは何もない」「桜は散る、紅葉も散る、そしてわが身も散る」という何だか学校の理科とか科学・化学めいたものだったり、虚無的なもの、ネガティブなものばっかりです。お釈迦様はそんなネガティブ思考、厭世思考だったのかいっ(゜o゜♯)って、突っ込みたくなります。
本当の諸行無常とは「救い」の法則です。
ハスの花が泥の沼から育って前の色に染まらず、いつもきれいな花を咲かせています。
人間は「事実の世界」と「思考の世界」を生きています。
事実の世界は昨日は雨だった、今日は曇りだ、そして今から晴れてきた…という思う前からある世界。頭で思った思考の世界はそこに意味をつける後からの世界です。
天気がくもりで陰鬱で嫌だなぁとか。
好き嫌いを言ったり、悪く考えたり、自分を傷つけたり、ネガティブな事を言ったりする。
つまり諸行無常という仏教語も解釈ひとつ間違えるとものすごくネガティブな意味になってしまってお釈迦様の説かれたやさしい本当の諸行無常の意味をはき違えてしまうのです。  
今の私はこのままなんだと思ったり、悪く評価したり、ネガティブな思いを塗りたくるのはご自身の自分流の思い方というものではないでしょうか。
人間って心というディスプレイで思い起こしたことの色に染まっちゃうのです。
悪いことが続くと、つい関連動画的に悪いことばかり想起しやすくなるものです。
自分なんてこんなもんだ、愛されてない、不運た、不幸だ、どうせこのまんまだ、と考える人は一生そのまんまです。
それよりも、自分が思ったことで自分の心を支配させていたのか。そうか、じゃぁ、悪く考えることをやめて、心をネガティブな思いに染まらせないように処するべきだ、と決意して心の負のループ、習慣をやめてしまうことです。
この心身は願わずとも頼まずとも真新しい新鮮フレッシュ産地直送の一番新しい心を生きています。そこに気づくことが仏道修行です。
心は選択したがります。つい習慣的な方を選択したがります。
苦しみを断ち「たければ」そちらには「いかない!」「いかせない!」と決意して、自分の自分流の負の思い方と決別することです。分からなければお電話ください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

心は無常

仏教では、心は無常だと考えます。
テレビでは、毎日ニュース番組をやっています。
しかし、朝から晩まで全てニュース番組ではありません。

今のあなたは、「これから毎日ニュース番組を見せられるのか」と悲しんでいるようなものです。
しかし、ニュース以外の番組も毎日、しかもニュース番組の何倍もの時間放送されている。

心は無常とは、いつかニュース番組のない日が来る、という意味ではありません。
毎日ニュース以外の番組もちゃんと放送されている、という意味です。
暗い過去を思い出す時間は、1日のうち何時間もありますか?
実際には、それ以外のことを考えている時間の方が多いのではないですか?

瞬間瞬間に変化して浮かんでは消えていく心に、もっと細やかに気付きましょう。
心には、欲・怒り・怠け・プライドの煩悩に支配される時間もありますが、煩悩に支配されていない時間もちゃんとあります。
仮に、毎日不幸でも、毎秒不幸ではないのです。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

私は過去に執着していた。過去を思い出しては悔やみ涙を流していました。しかし心は沈んだとしても次の瞬間には別のことに奪われる。この後悔はうつろいやすい心が見せる幻だった。
これからはこのうつろいやすくいい加減な心をしっかり見つめて整えていきたいと思います。
ありがとうございました。

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