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猫を轢いてしまいました

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1月1日に親戚の家から帰る夜道で車で猫を轢いてしまいました。
運転していたのは母で他に私含めて3人いました。
いきなり横から出てきたので回避は不可能だったと思います。
でもその後車を停めることもなく走って行きました。
私と姉は停まらないのか等言いましたが結局そのまま家に帰宅してしまいました。当たった衝撃はありましたが、踏んだ感覚はありませんでした。生きていてくれればと都合のいい事を願ってしまうのですが、父は多分死んだと言います。
猫を轢いてしまった罪悪感の中、停まらなかった母と、仕方がないと言う父の言葉にショックを受けました。車の中で冷静になり、強く言えなかった事が辛かったのを覚えています。
あの時車を停めて病院に行けばよかったと後悔がありますが、もう遅いのは分かっています。
事故を起こした場所へ行き、花や線香でもあげられればいいのですが多分場所がわかりません。
遠いし場所で暗かったし轢いた時は皆パニックになってたので何処だったのか曖昧になっていると思います。
だから母と2人で神社かお寺で「猫が死んでいたら安らかに成仏してほしく、生きていたら傷が癒え元気になりますように」と気休めですが願いたいと思います。

乱文失礼しました。
私が質問したいのは、
・猫の供養の為に神社とお寺どちらに行けばいいのか。
・車はお祓いなどしなくてもいいのか。

成仏・供養と言っておきながらお祓いも聞いているのは猫に対して失礼だと分かっています。
でも私は家族が大切です。何もあってほしくありません。
本当に自分勝手だと思います。
猫にも失礼だと思います。
でも不安なんです。
どうか教えてください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

憑りつきとは、自分が起こす思い。

まずネコちゃんが無事であることを祈ります。
仮に亡くなったしまっていたとしたら、そのままでは心苦しいでしょうから、お正月の三ケ日が過ぎたらお寺や神社で事情を話して供養やお祓いをしてもらうと良いでしょう。
埼玉なのでお近くならばうちで良ければ御連絡いただければ、お引き受けいたしますが、お近くのお寺さんなどでお願いするのが良いでしょう。
猫や犬というのは人間に❝懐く❞生き物です。
変な意味ではなく❝憑く❞のです。
たとえば、車でドングリを轢いてしまったとしても特に気にとめはしないでしょう。
ゴキちゃんなどでは気にもしないでしょう。
夏場なんか蚊取り線香、除菌タオルは大量虐殺。
でも、そういうことは気にしない。
それが猫ならではの❝憑き❞なのです。
憑きといっても霊的な何かが憑依することではありませんので、誤解無く。
猫ちゃんだから可哀想。大きな生物だから可哀想だと思うものです。
そういう後ろめたさが、残り続けるようでしたら第三者を介して、心の憂いを払ってもらうと良いでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早速の回答ありがとうございます。
質問ではあんな風に書きましたが父も
母も動物は好きだし優しいので心の何処かで引っかかってると思います。
でもやる事が決まったので少し前向きになれそうです。
アドバイス通り三ヶ日が過ぎたらお寺に行ってみたいと思います。
相談に乗って頂きありがとうございました!

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