友だちとは、人を見る目とは…私の実体験と考察。
いつもお世話になっております。
最近、信頼していた方に何度も裏切られています。全部、
祈願寺で出会った人たち、もしくは死んだ養母ととぐろを
巻いていた人たちです。
安心してお話ししていたところ突如誹謗中傷が始まったり、
護摩の待ち時間他のお客様のたくさんいらっしゃる中で
私のところに来てちょんちょんと肩を叩き、自分の周りの人たち、
或いは祈願寺によく現れる、その方曰く「変な人」の話。
私はもう気にするのをやめました。どんな奴がいようと、
目の前にいるのはただの人。
お嬢様?あぁ、空気空気。毒ガスには防護マスクの要領で
本を読んだりイヤホンをはめてお経を聞いたりしています。
その人たちとの関係は、いつも私が損をする形で終わります。
他のお客さんに嫌な顔をされて、私がそのお客さんに謝る。
そいつらは、私を見てもそれきり知らんぷり。
そこで私は考えました。友達とはなんたるか。
「互いを高め合う存在、人の悪口は言わない。互いに有益な
情報や話を好む。常に互いに学びを忘れない。」
1に作務、2に勤行、3に教養…お大師様、さすがです。
本格的にお寺に迷惑をかけそうで自分自身が怖いです。
いったい私はどうすればいいんでしょうか?
1回や2回話をしただけじゃ相手の人となりがつかめません。
それで21年間何回も騙されて来ました。
発達障害があるが、他の患者が苦手、健常者さんに負担を強いる障害者が許せない、 医師の悪口を言う僧侶が許せない、選挙で体調崩す、医師を顎で使ったり「薬減らせ」とごねる患者に辟易 #薬は悪くない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
同行同学
ご存知かと思いますが、我々の仏道を導き支えて下さる方のことを善知識と言います。善知識について宗派や研究者によって説明の差異がありますが、私は「善知識には、教導の善知識、同行の善知識、外護の善知識の三つがある。」と学びました。
同行の善知識とは、共に経を学び業を積み法を語りあう仲間だと思います。私の場合で言えば、本山で同じ釜の飯を食べた修行仲間がこれに当たります。ロータスさんが質問に書かれた1、2、3は正しいと思います。
あなたにとってお大師さんが大切な御同行なら、当然たいせつな友達と考えて宜しいと思います。以前、中村元先生か増谷文雄先生の本を拾い読みした時、お釈迦様と阿難尊者の会話を紹介し、お釈迦様は「善き友をもち、善き仲間のなかにあるということが、この道のすべてである」と語っておられました。どうぞ、善き友を大事にし、あなた自身も善き友となれるよう精進ください。
世の中のすべての人が生き仏のようなということは有り得ません。裏切られたり騙されたりするのは嫌ですけど、生きている限りいろんな方々と接していくことは必要です。いろんな立場の方と仲良くすることは、生きていく上で必要不可欠です。無理に友達になる必要な無いですが、親戚・御近所・同業者・取引先等と程よく上手く付き合っていくことは大事です。こういうことも、人生における大事な修行の一つでしょう。今までいろいろとトラブルがあり、再発を心配するなら、「挨拶は丁寧に」「会話に入る際には聞き役に徹する」と良いのではないかと思います。
質問者からのお礼
【吉田俊英 先生】
ご回答ありがとうございます。「善知識」とは知識でなく友達のことだったんですね!
私も善知識の人になれるように頑張ります!
祈願寺は参拝にあたりかなり厳格なルールが定められています。その中に「私語厳禁」
があります。お坊さんいわく、
「苦しみや願いを抱えた人たちにとって、誰かの無神経なおしゃべりはひどい雑音になる」
そうです。種々のトラブルを避ける目的でも、ルールは大切なんだと実感しました。
こんど私に近寄って話しかけてくるようなことがあったら、
「真剣に拝んでる人がたくさんいます。ご迷惑になるので後でにしましょうね」
と伝えて回避して見たいと思います。