誰が私の罪を裁いてくれるのでしょうか
私は動物病院に務めていました。
歓迎会の時、院長の隣にいたのですが、院長はぽろりとこう零しました。
「僕らはな、十字架を背負って生きてるんや」
その時は意味が分かりませんでしたが、今なら分かります。
動物を救えなかった悲しみ、自分が良かれと思ってやったことが動物を死なせてしまう苦しみ、日々の業務に追われて一人一人に向き合えない無力感。
そして私は十字架を背負うことを放棄しました。
私にはそれを背負う勇気がありませんでした。
しかし私は十字架を放棄したことを悔やんでいます。
救えなかった、自分が至らなかったばかりに死なせてしまった子のことを考えるときは涙が止まりません。
こんな私を誰が裁いてくれるのでしょうか?
いっそ裁いて罰してくれたら楽になる、という甘えもあるのかもしれません。
でも私は、この罪はどうすれば償えるのかが知りたいのです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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あなたに罪はない
お尋ねしたいのですが
命を救えなかったお医者さまが「十字架を背負う」のでしょうか。
それなら命を奪う畜産の仕事の方は?養殖業の方は?
どれだけ重たい十字架を背負っていることになるのでしょうか。
仮にそうなら、食べている私たちも決して無罪ではありません。
お釈迦さまはきちんとした形で布施されたお肉は頂いたそうです。
なぜなら、これを受け取らないと肉屋さんが功徳を積めないことになるからです。
命を奪う肉屋さんも功徳を積めて救われることができる。
ならば「命を救えなかった」ことは決して罪障ではないのです。
救えなかった悲しみはもちろん否定しません。
想像以上に、精神的にも辛いことでしょう。
それが重く十字架のように感じるのも致し方ありません。
ですが「救えた喜び」もあるはずです。
アナタが言うように100点満点ではなかったとしても、その働きにより救われた命と生まれた笑顔と感謝があります。それを忘れてはいけません。
動物は仏教では「畜生道」で本来は三悪道とされる不幸な世界の住人なのです。
そこから離れることができた、そして供養をして下さる方がいたならば
これは「救われた」という見方もあります。
ですから、自分で作った十字架が降ろせないなら、ご供養しましょう。
そしてその分、自分の命をしっかり使いましょう。
使う命と表して「使命」です。
すべての生き物は、仏さまから与えられた命をただ有り難く使わせていただくのみなのです。
命は思い通りにならない、だから有り難い。
最後に手塚治虫先生のブラックジャックに遺る名言を。
「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね…」
質問者からのお礼
>それなら命を奪う畜産の仕事の方は?養殖業の方は?
どれだけ重たい十字架を背負っていることになるのでしょうか。
ハッとしました。自分ばかりが重い業を背負っているとばかり考えていました。視野狭窄に陥っていたのですね。
ブラック・ジャックの名言、心に響きますね。さすが手塚御大です。
そういえば私の好きな曲にも、好きな歌詞があります。
「またとない命を 使い切っていくから」
私は誰にも看取られること無く孤独に死んでいったあの子達を供養したいと思います。苦しみの生から離れ、極楽に生まれ変わり永遠の安らぎを得るようにと。
そのためにこの命を使い切ります。
ありがとうございました。
>命を奪う肉屋さんも功徳を積めて救われることができる。
ならば「命を救えなかった」ことは決して罪障ではないのです。
罪障ではない、と言い切っていただいて救われた思いです。涙が出てしまいました。ありがとうございます。