hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

預けた娘が火傷して帰ってきた

回答数回答 3
有り難し有り難し 64

上の子はいつも旦那といつもお寺に出勤しています。別にこちらに預けなくてはならない理由はありませんが、義両親がかっていた犬が去年なくなりそれから旦那が連れて行くようになりそのままずっと続いてます。

先日義母が暑い飲み物を飲もうとしていて、その入ったコップを娘が義場の手を引っ張って飲もうとして口元から喉元そして胸元まで火傷をしてしまいました。

旦那から電話があって、今から病院へ行くから、大したことないから心配ないよと言われましたが、帰ってきた娘をみて結構ひどいなというのがわたしのいんしょうでした。

私も火傷経験者で火傷して10年くらいして跡がめだたなかくなりました。
ですから、娘の火傷の後が残らないか心配です。

ただ、この県に関してすべて旦那から話を聞きました。当事者の義母から私への説明も謝罪もなく、ただ一言旦那に「○○(私)がやけどの件で怒って、もう連れて着たくないならつれてこなくてもいいよ」でした。

その日は私もよく考える余裕もありませんでしたが、このセリフを聞くと反省や謝罪よりも捨て台詞で悪びれる様子も無い様に聞こえます。 

娘を可愛がってくれているのは解りますが、怪我をさせたのだから謝罪と事の経緯くらいはあってもいいのではと思います。

娘はまだ一切で危ないかどうか判断できない年齢ですし、預かった以上責任持って接して欲しいし、このような事があったのだったら報告すべきだと思います。

もう連れて行く事は辞めた方が良いのか、これからの義両親との関係を考えると(将来同居)むやみに娘を預けないわけにも行かないし、今後また怪我をしたらと考えると迷ってしまいます。
まぁ、家にいても怪我をするときはすると思いますが、今回経過報告も謝罪が無い事が引っかかるんですよね。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そろそろそういう生き方を卒業しましょう

お子さんが無事で何よりです。
わが子の事であると烈火のごとく怒りを覚える、無理も無いことです。
もう、そういう怒りばかりの人生を卒業しましょう。
怒り怒りの連続人生ですと、子供にそれが映ります。
授乳を通して怒りの雰囲気が伝わりそれも伝わってしまうと思います。
確実に怒りっぽい子供になります。もしくは委縮した子供になってしまいます。
人の文句言ってばかりの子供になります。
自分の事を棚に上げて人の事ばかり悪くいう子供になります。
旦那も逃げていきます。義理の父母と永遠に平行線です。
ウチの子供もチキンラーメンでやけどしてしまって胸のあたりまでやけどしましたが綺麗に治りました。
子供の回復は早いですから、皮膚科を二か所くらい回って傷跡が残らない薬を処方してもらうと良いでしょう。
今年は少し、質問の仕方を変えてみませんか?
このような時、どのようにして怒らずに済むでしょうか。
どうすれば義理の母と今後もうまくやっていけるでしょうか?という形で質問なさってください。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

修羅と不動明王

修羅
あなたもお寺に嫁いだのなら一度は耳にしたことはあるでしょう。
相手を責めるばかりの闘争心の塊が修羅。
義母への嫌悪が生むものに宗教的解決は万にひとつもありません。
----------
嫌悪感を哀れみに変えるのです。そのために仏の教えに救いを求めるのです。
不動明王という名前も聞いたことがありましょう。
素直に仏の教えを学ばない者を腕尽くで帰依させる怒髪相の仏です。
縄で縛り自由を奪い、剣で煩悩を断ち切る。
----------
あなた自身、自由を奪われる前に
素直に仏の教えに従った言動を取るべき。

{{count}}
有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

怒ってばかりの思考回路をやめましょう。

旦那さんから報告があったんだから、それでいいではありませんか。
悪者探しばかりの思考回路では、あなたが将来モンスターペアレントにならないか心配です。

「怪我をさせた」という考え方ではなく、「たまたま義母といるとき怪我をした」と考えてください。
プロの保育士に預けていても怪我をすることはあります。
すぐに対処することが大事です。
怪我を放置されたらさすがに怒ってもよいですが、すぐに病院に行けたのならそれでよいのです。
こんな言い方をするとショックかもしれませんが、なぜ旦那さんがあなたを選んだのかわかる気がします。
あなたは、実は義母と性格が似ている(怒りっぽく、他人を批判したがる)のでは?

{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

すぐに対処と言っても、旦那から電話をもらいお正月でもやってる病院探し、対応の電話をしたのは義母ではなく私です。

娘を連れて行ったのは旦那です。悪いと思うなら義母がするべきです。

終わってしまった事ですし、次に怪我をさせたら考えます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ