お婆ちゃんのこと。
こんばんは。
今度はおばあちゃんについてです。おばあちゃんは認知症です。
元々千葉県に住んでいました。浦安市です。ディズニーの街です。
中2になると同時に、姉・母・私で、おばあちゃんの介護の為に、お父さんを千葉に残し、広島県廿日市市に引越しました。宮島の街です。
中学校が変わり、パートを始めた母に代わり、私がご飯を作ったり、出したりしていました。
中3で塾に行き始めましたが、おばあちゃんに晩御飯を出してから、塾に通っていました。
私は今、岐阜の大学に通っていて下宿をしています。
一人暮らしをして、友達を沢山呼んで・・・という夢は諦め、大学寮に住むことに決めました。
家賃は4300円。光熱費は5000円弱。
ですが、安いですが、抜群に汚く、私は気管を痛めてしまいました。
それでも、デイサービスに行くおばあちゃんの為に自分にかけるお金は、減らして欲しいと思い、大学寮は出ませんでした。
今では、排便や食事もままならず、施設に入っています。
成人式で帰った時に、おばあちゃんに
「俺誰かわかる?」
と聞いたら
「はー、誰じゃったかいねー?」
と言われてしまい、後頭部を強く殴られたかのようなショックを受けました。
「ユーリだよ。」
「大きくなったねー」
どうやら、私は、早稲田大学に通っているらしく・・・
今年7月に半年ぶりに帰り、施設を訪ねて、同じ質問をしました。
「俺誰かわかる?」
少し考え・・・
「ユーリ君!!」
私は、驚きました。半年前に忘れていた人間を認知症の彼女が、思い出せるでしょうか?
施設の人曰く、
「いい子にしてたら、家に連れて帰ってもらえるって、思ってるんじゃないかな?」
私は、その場で大号泣してしまいました。
今の私があるのも、彼女がいたからです。
親は、「大変だろうから帰ってこんでええ。交通費もあるし。」と言います。
ですが、2年間のバイトでそれなりに貯金しました。
私は、野球部に所属していて、長期休暇はほとんど練習です。
さらに、勉強。自分磨き。
実際、最近、前述のことを言い訳にしてお婆ちゃんの老いていく姿を、見ないようにしている自分がいるような気がします。
やはり、時間を無理矢理絞り出してでも、会いに行くべきですよね?
そして、どう声をかけたらよいでしょうか・・・?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
老いてゆく姿を見せるのが、おばあちゃんの役割です。
ゆーりさん、はじめまして。長谷川哲真と申します。よろしくお願いします。
おばあちゃんが痴呆とのことで、肉親なのに名前を忘れられるって辛いですよね。しかし、よくある話です。私の祖母もその様な状態でした。一番良く世話をしてくれていた、叔母さん(祖母から見て長男の嫁)が、「どなた様ですか?」と、たまに聞かれると、笑いながら話していました。本人はショックでしょうが、笑い話にするのが一番気持ちが納まるのでしょう。やはりムラがあるようで、いつもではなかったようです。
私の私見ですが、人間の心は層になっているような気がします。一番上の層が、社会的な生活を営む心で、下には子供の心があり、もっと下には動物の心があるような気がします。もっと深くには、判断をすることない純粋に経験を記憶する心があるのではないでしょうか。(これは仏教の唯識という考えをリアル理解してみました。)
さて、ゆーりさんのおばあちゃんは、ゆーりさんをすっかり忘れたのでしょうか?私としては、ただ判断が出来ないのだと思います。今、前にいる人がゆーりさんだと判断できないのです。人間は、経験したことを消してしまうことはできません。だから、たとえ、おばあちゃんが「ゆーり君」と名前を呼んでくれなくても、おばあちゃんの心には、ゆーりさんとの触れ合いが、経験として残るのです。その事を、言葉で「ゆーり君」と出せるかどうかは、その時の調子によります。必ず、ゆーりさんの言葉はおばあちゃんの心に届いています。そして、ゆーりさんにとっては、自分の言葉が、必ずおばあちゃんの心に届いていると思って、愛情をもって接する事がとても大切です。
私は、老いる者は、老いてゆく姿を見せることが、この世の役割だと思っています。死にゆく者は、死にゆく姿を見せることが、最後の役割だと思っています。おばあちゃんの役割は、ゆーりさんに老いゆく姿を見せる事です。「ゆーり君、人間は必ず老いていくから、一日一日を大切にしなよ。」と、おばあちゃんが教えてくれてるのです。それを教えてもらうために、是非、おばあちゃんに会いに行って下さい。ゆーりさんがおばあちゃんの姿から何かを学んでくれれば、おばあちゃんの老いも痴呆も無駄ではない、意味あるものになるのです。
答えになりましたでしょうか。
また、お会いしましょう。
なにをするでもなく
人間、年を重ねて認知症になって、周りから見ると何を言ってもダメそうな状態であってもちゃんと!「わかって」いるのだそうです。
付き人さんたちは、ボケちゃってるから大丈夫だろうと思ってするべきでない話などもしている人が多いのですがちゃんと「わかって」いるのだそうです。
感情もきちんと備わっているのだそうです。
小さい子供も親が「どうせ子供にはわからんだろう」というつもりで話していても、子供にはちゃんとそこで何を言われているのか、どんなことが行われているのか、ちゃんと子供なりに「わかって」いて、汲み取る能力があるのだそうです。
ならばこそ、一人の命として平等に接する。
それが、たとえ小さい子供であろうが、年老いた年配の方であろうが、差別せずに接するべき「尊厳」というものであると思います。
いのちが命に向き合う、アナタが誰かと口もきかずとも一緒にいる。それだけでお互いの中で、何かが行われています。
そばに居て、その「何か」をしているだけで、十分じゃないでしょうか。
人間の感受性や、愛情、慈悲の心はそういう中でこそ培われていくものだと思います。
アナタがそこで一番「わかって」くると思います。
「わかって」あげてください。「わかっている」おばあちゃんを感じてみてください。
あなたの親の「かあちゃん」です。ものすごい何かを頂けるはずです。
私もたくさん悩みました。
ゆーりさん、こんにちは。このご質問に対して、私自身と重ねながら、いろいろ考えてみました。
私も実は、今、祖父が認知症で入院をしております。とても優しかった祖父が急激に別人になっていき家族は非常に当初、大変でした。最初は、頻繁に入院している先に祖父の顔を見に行けば良くなるのでは・・・と思ったこともありました。しかし、回答者の先生方が言うように、「“老い”とはこういうものであるというのを身をもって示してくださり、そこに自分の無理のない程度で寄り添っていく。」と言うことが大切なんだと思います。自分が何とかしないといけないと思うと、精神的にも体力的にもすぐ限界が来ます。私の亡くなった祖母は、10年寝たきりでした、その介護を一手に引き受けていた母親は何度も倒れて自分が入院をし何度も死にかけています。その姿をみているのでやはりゆーりさんも家族を大切にして、自分の出来る範囲で寄り添っていければ良いのではないかと思います。
ただ寄りそう
ゆーりさん、色々と悩みが多いご様子。
今回はお祖母さんとご自身の関係性についてのご質問ですね。
自分の暮らしよりも、お祖母さんにお金を使ってあげて欲しい、と考えていらっしゃるのですね。きっとたくさん可愛がってもらい、たくさんの思い出があるのでしょう。だからこそ、とても優しいお気持ちをお持ちなのでしょうね、私も気持ちが暖かくなりました。
半年前に出てこなかった孫の名前が、今回出てくる。お祖母さんの症状は詳しく分かりませんが、「まだら認知症」というものもあります。体調などによって、認知症の出かたも日々変わるのかもしれませんね。
でも言葉として出てくる出てこないは別として、脳の奥深く、心の奥底ではきっとゆーりさんのことを分かっていらっしゃると思います。「どう声をかけたら」というよりも、そばに行って手を握る、繰り返す話をただ聴いてあげるだけで良いと思います。
どうぞご無理の無い範囲で、会いに行って差し上げてはいかがでしょうか。お祖母さんは、ご自身の姿を通して孫に「いのちの授業」をして下さっているのだと思います。
自分に言い訳すればいい
ゆーりさん、こんばんは。
野球部に所属していて長期休暇はほとんど練習。さらに、勉強。自分磨き。
さらにアルバイト。大変ですね。
おばあさまのこと。
辛いですね。おばあちゃんには元気でいてほしい。
先立つものがあるならば、使えばいいじゃないですか。お金も時間もそうです。ヒマとは作り出してできる時間のこと・・とはだれかの言葉ですが。
ただし、なんでもかんでも使えばいいかといえば・・どうでしょう。
どうするかの決め手は・・あなたの気持ちが、どこに向かうか、です。
リソースがもったいない?現実を見たくない?忙しい?まじめに向き合うために頑張りたい?
自分に言い訳すればいいはずです。
「言い訳」というと方向性が暗い・悪い感じになりそうですが、「理由づけ」でもいいでしょう。
なんにしても覚悟が必要そうですね。もちろん、とりあえず一回行ってみる、というのも良い方法でしょうね!迷ってるなら、一度やってしまう。
つぎに、どう声をかけたらよいか・・。
おばあちゃん、完全にあちら側にいっていますか?
ほんのすこし、こちら側に意識を残していませんか?
私たちのために、おばあちゃんは意識を残してくれているはずです。その時間を待ちましょう。声をかけなくてもいい。辛抱強く、そばにいる。待っていることだと思います。