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精神障害

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私は先天性の難病に生まれ手術をし延命治療具を体に入れ生きています。社会人になり自分が障害者であるとういう事にものすごく悩みました。その結果統合失調症と言う精神障害になりました。その様な精神障害でありながら前に向いて生きて一生懸命仕事をしようとしましたが統合失調症と強い恐怖心で仕事はもっても一年くらいでした。仕事を転々としている間にも障害者と体のメスにようしゃないいじめが有りました。統合失調症のせいで勘違いの事もありますが、でも本当にひどいいじめにあってきました。統合失調症の方は10年経ちだいぶ緩和してきましたが障害者という自分と体のメスに対しての壮絶ないじめ、仕事を転々としすぎて会社で働く事が難しい自分とういう苦しみにより人が怖い、社会が怖いと物凄い地獄の様な恐怖心の病気になり社会不安障害、社会適応障害と病院から言われました。働かなければならないという責務感があり求人をみるのですが今までの壮絶ないじめがフラッシュバックとなって恐怖で立っている事も出来ません。病院の先生から障害年金を申請しては?とういうお話が有ります。ただ国からお金をもらって働かない人生が申し訳ない気持ちになります。ただ社会では決していじめられても暴れる事もなく言い返す事もほとんどしない私ですが会社でいじめられる事が私の体への体罰にしか感じず誰のせいでこんな体と心のいじめにあってるんんだと家では口とたまにたたいたりして大喧嘩を何年もしてきました。少し前にもう家族みんな辛い気持が限界を越してしまい最大の大喧嘩になり私が警察を呼ぶ事態にまで成りました。家族で口論がものすごいところまで行ったのです。もう自分も家族もこの十年すぎ辛さが限界を超えてしまいました。これ以上ひどい警察沙汰になるような事が無いかと不安で仕方ないです。なので障害年金で暮らしていこうかと考えてます。ただ働かない事に申し訳ない気持ちで一杯なのですがこれは悪い事でしょうか?お教え下さい。お願いします。それともう一つ女と言う体にメスを入れられ心はズタボロに傷つききって延命治療具と障害者でこの十年行き地獄を本当に毎日飲んできました。この十年毎日死にたいとしか思いませんでいた。そこまでの思いと社会からの壮絶ないじめにあうために生きろだなんて医療が悪にしか思いません。間違ってますでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それを扱っている思いは今生じているが、そのことは既に過去

障がい者年金は正当な権利です。頂くべきです。
あなたは大変な人生を歩まれてきました。
悪いことを思い返せば思い返すだけ、苦しくなります。後悔と医者に対する許しがたい気持ちで心がくすぶり心が重く暗くなります。
心の負担を軽減するために、こう考えてみてください。
「今はそれは過ぎた。確かに苦しかったけれども今は今日」
あなたが息を吸って吐いているのは、こんにち、この日、この瞬間なのです。
今もメスが刺さっている訳ではありません。
もちろん、心に深くメスが刺さっているかのような感覚が生じることはあると思います。
ですが、今は手術室ではありません。
ここを明確にする必要があります。
「苦しかったが、今は今なのだ。」という目覚め。
人間は過去の事でも、それを強く念じて、ひきよせると、あたかも今がその過去の苦しかった時のようになります。ですが、この時に肉眼が見ている世界、耳が聞いている世界は、それは決してその過去の事ではなく、たった今の目の前の現実なのです。
あなたが生きるべき、こんにち、この日、この瞬間は、そこです。
そこに目覚めませんと、あなたは思いにとらわれながら生きていく事になってしまう。
私にもかつて苦しいことが沢山ありました。ですが、一番後々自分を苦しめているのは、自分の被害者意識であったことに気づきました。被害者意識と、医者の不正・ミスに対する気持ちは別々にすべきものです。先日も出産したばかりのウチの子供が医師のミスによって顔に傷をつけられてしまいました。
医師が何も言わないので、しかりつけました。
もし不正があったならその不正を正してよいのです。
ただし被害者意識は持ち続ければ、ずっと損したような気持ちがネガティブなエネルギーとなって自分を苦しめてしまうのです。自分を苦しめる考え方は離れましょう。そして、今日を新たに生きるためにももう過去の事は取り返しがつくことであれば、それを正す為に行動するのは良いにしても、あなたが苦しまないためには、変えられないことは、それ以上思いを重ねない様しましょう。心が軽く、晴れやかになってい行く事でしょう。
メスはメス。人を救う道具でもあります。悪いもののままにしていれば、被害者意識の思いは払しょくできないでしょう。それが無かったら逆に命を落としていたかもしれません。
おかげさまで、今がある。おかげさまで、今日に至っているのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

決して被害者意識ではありません。本当に 体のメスに対しての壮絶ないじめがずっとでした。これが現実です。体のメスへのいじめというのは 本当に言葉では言えないくらいの 辛いものが有ります。その他障害者としての壮絶ないじめにもう自分も家族も限界を超えてしまいました。
それが無かったら逆に命を落としていたかもしれません。 とおっしゃいますが 生きていたくない程の人間の苦しみを御存じですか?
ですが 今日を新たに生きるためにももう過去の事は取り返しがつくことであれば、それを正す為に行動するのは良いにしても、あなたが苦しまないためには、変えられないことは、それ以上思いを重ねない様しましょう。心が軽く、晴れやかになってい行く事でしょう この言葉に 救われた気持ちです。誠にありがとうございます。

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