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理趣経について。そんなに危険な経典ですか?

回答数回答 2
有り難し有り難し 60

 いつもお世話になっております。
 インターネット等で仏教に関する情報を収集していると、

「理趣経は民間人が読んじゃダメ」
「絶対的門外不出」
「理趣経加行を受けてから」
といった趣旨の記述が目立ちます。

「17清浄句が極めて誤解を生じやすい表現であるため」
とのことでした。
              *
 ですが、私の祈願寺では護摩修行の際に読誦、
また護摩用に貸し出し、販売されている経典に、

勧請部、序章、初段、百字偈、17段(金剛手若有聞此〜)、
流通部の順に載っています。

 そして信徒に向け、一緒に他の経典と並び修行中に読むことを
奨励しています。
              *
 私これを含めお経を読むにあたって漢文をかじり、
ほんの少しですが読み下すことができます。
 たしかに、非常に「強烈」な意味でした。
これは誤解して魔境に陥る人も出るわけだと思いました。

 ですが、あのお釈迦様や大日如来様がそのような軽率な
発言をするはずがありません。
              *
 長年の引っ掛かりです。ご意見お待ちしております。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

インターネットの情報に頼りすぎだと思いますよ。理趣経の解説本を読んだり、真言宗のお坊さんに教わったりすることも大切ですよ。
私は浄土宗なので理趣経はあまり深くは学んでいないので、知っている範囲でお答えします。
理趣経はそんなに特別だったり、誤解を招いたり、強烈だったりするお経ではなく、大乗仏教を実践し悟りに至る方法を説いた普通のお経です。読誦するだけでも功徳があるとされているので真言宗では日常のお勤めでも読まれているようですね。
17段は、真言行者はこうあるべき、という内容ですね。
お釈迦様の教えは欲を捨てなさい、ということですが、理趣経には反対に欲を持ちなさいと書いてあります。この点が誤解を招くと言われているのかもしれません。
しかし、欲といっても自分の為の小さな欲では無く、世の人々の為の大きな欲を持ちなさい、と言われているのです。
その点を間違えてはいけません。
自分を捨てて、世の人々の為に尽くすという絶対的な楽しみを得ることによって、悟りを得るのです。
そうすることで自分の外側と内側の魔をやっつけて、どこにいても仏様のように自由自在に活動できるのです。
そして更に、生きとし生けるものを救っていくのです。
ですから百字の偈にも、大欲は清浄である、と書いてあるのです。
お釈迦様の教えとは一見すると真逆の悟りへのアプローチのように見えますが、そうでもありません。お釈迦様も生涯にわたって説法を続けられました。人々の為の自分のことはかえりみずに。その点は共通することであります。
私達凡夫には欲を捨てることは難しい。それなら、自分だけの欲では無く、周りの人々の幸せまで欲する大きな欲を持て、ということです。
私達凡夫には怒りを捨てることは難しい。それなら、自分の為に怒るのでは無く、弱い立場の人々の為に怒れ、ということです。
私達凡夫には愚かさを捨てることは難しい。それなら、周りから愚か者と言われるくらい人々の為に尽くせ、ということです。
あなたがいつも祈願するのは誰の為でしょうか?
理趣経を読まれるのなら、もちろん、全ての生きとし生けるもの達の為の祈願ですよね。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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善き仏縁へと向けて

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「理趣経」は、「金剛頂経」における「理趣広経」の略経となります。

「金剛頂経」自体は、灌頂・成就法の実践のための内容が大半としてあるため、「理趣経」に関しても、できれば、灌頂を受けてから参考としなければならない内容となっております。

密教における様々なセンセーショナルな表現は、一つのシンボリスティック的な役割を持つものとなっています。

ですから、字義通りに解釈しようとすれば、世俗的な意味合いで捉えてしまうことでの誤解が、生じやすいところとなっております。

密教を正確に理解していくためには、顕教をしっかりと修習していること、空性の智慧がある程度調っていること、経典の未了義と了義の分別と共に、世俗諦と勝義諦の二諦の解釈を正確に理解していること、正師より灌頂を受けて、正しい指導を頂くことなどが求められるところであると考えております。

その上で、理趣経などに登場してくる、センセーショナルな表現におけるシンボリスティック的な意味合いについても、正しく学び理解していくところが必要であると存じます。

もちろん、経典を読むことで、いずれ、灌頂への仏縁へと繋げるための習気(じっけ)を置くという意味においては、読むことも否定されるところではないとは存じます。それが機縁となりて、強い仏縁へと向かうことも当然にありますゆえに。

善き仏縁となりますことを。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

【三宅 聖章 先生】
ご回答ありがとうございます。
きょうは職業訓練休みなんで図書館行って
からお寺行きます。 理趣経の本あるかな…。

ちなみに、私には
「神様!私の〇〇を△△して下さい!」
「##成就せしめ給へぇぇええ!!」
と言ういわゆる、願い事はありません。
願ったところで叶うものではないと
思っているので。逆に叶わずに恥をかいた
ことの方が多いです。

なのでそうですね…ノボリ幡やきつねの
前掛けの願意欄には
「萬民豊楽」「信徒安全」
と書くことが多いですが、これも自分の
願いがないので消去法的なものです。

お寺へ行くのも、親に挨拶に行くのと
似たような感覚です。

自分は幸いこのような身の上なので、
街頭募金には毎週お布施するように
していますが…

まだまだですね…

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