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母の死から立ち直れない

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こんにちは。表題の件、アドバイスをいただけたらと思い、投稿させていただきます。

約二ヶ月前に母をなくしました。突然の死亡でした。
初めの一ヶ月は死の原因が自分の不注意であることを攻め後悔し、それでも色々なかたから寿命であったこと、穏やかな死に顔を見、苦しみから解放されたんだからよかったんだ、というような事を言われ、そういう一面もあるのではないかと思えるようになりめした。

ですが最近は、やはり母をなくしたことが寂しく、もう一緒に散歩もできない。私がつくった料理を文句も言わず食べてくれるひとがいない。父と姉がいますが、私のみかたは母一人であったから、もう私の無条件の見方は誰もいないと考えると、涙が止まりません。
毎日、道を歩いても、音楽やテレビを見ても母と一緒にみたり歩いたりしたことと繋がり、一日に何度も、すぐに泣いてしまいます。以前は滅多に泣いたことはありません。

願わくば早く私も母のもとに行きたいですが、また会えるとも限らないし、あの世で会えても、母は私の母ではないかもしれないですよね?となるとほんとに、もっと一緒に過ごしたかった。また後悔してしまいます。

こんなに悲しいのは普通なんでしょうか?
それとも母の無念さのメッセ~ジなんでしょうか?いずれ癒されるか、普通にやっていけるのでしょうか?ほんとに悲しく、全て母に繋がり、辛いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

愛別離苦

愛する人との別れから生じる苦しみは、別の状況を立てることで生じます。
今の真実は悲しいですが、お母さまが居なくなられました。
これが真実です。
ところが心の中で、別の状態を描いたり欲することで、ギャップが生じる。
いてくれたらいいのだけれどそこにお母さんがいない。
失われた気持ちが生ずる。喪失感や空虚感が生ずる。
自分から何かを奪われたような気持ちになる。さらに追い打ちをかけるように、思いが思いを生成する。
どんどんネガティブな気持ちになる。
この哀しみループから抜け出す為に効果的なのは、あなたが終焉を持たない事。
実はあなたはお母さんを死なせたままにしているのです。亡くなったまま状態で、今のあなたと亡くなったお母さまとの関係性がまるで始まっていないのです。
法事をする、位牌を持つとはそういうことです。
開眼をするというのも、生死始まり終わりという人間の人間的なものの見方を離れて仏の眼を開いて、生死や苦楽、始終という人間論的なものの見方を解脱することが本当の位牌開眼仏像開眼、石塔開眼なのです。最近の僧はそういう心に目覚めさせる力量のある僧が少なくなってきているから、あなたのようにずっと哀しみのまま抜け出せない人もいらっしゃると思います。
機会があれば坐禅会にいらしてください。
開眼をして差し上げます。
ものの見方が、始まり⇒終わり、生まれ⇒死ぬ・終焉という考え方、観方、捉え方でなくなることで孤独感は拭われます。別にお位牌の開眼やらをするのではなく、あなたが今後お母さんともより良く関わっていけるように目を開いて頂くだけです。来週の坐禅会に一時間ほど早めに来て頂ければ、そういったお話もお伝えできると思います。人間的な生き方には、どうしても生死、優劣、勝ち負け、損得がつきもの。ここに縛られているうちは悟りも解脱もありません。
正眼、仏眼、法眼、慈眼などと言われますように、あなた自身がそういう仏の心に目覚めることこそ、あなたの仏教的生き方の始まりなのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。自分自身にも開眼が必要なんですね。色々と大切な方をなくしたかたの事を検索し読ませていただいていますが、悲しみは増すばかりです。是非座禅会に参加させていただきたいです。よろしくお願い致します。

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