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もう一度病院行こうか悩む。

回答数回答 2
有り難し有り難し 15

私はもう一度
整形外科と心療内科に行こうか
迷っています。

私は以前まで
体が痛くて捻じれてる感じで
毎日めまいで吐いたりしてました。

そのときはちゃんと整形外科行ったら
ストレッチや、運動しましょうと言われました。歩くだけで激痛で整体に毎日行っても死にそうに痛かったです。

心療内科に行っても痛みでうまく説明できなくて気が狂っていて
痛み止めとかで
効果がわからなくて
死にそうでした。

そして、
もうダメだと思ったときに、
ある人に
運動は体に悪いからそんなのやめなさい。と言われ、半信半疑で、
病院で言われたストレッチや運動を一切やめてとにかくなんもしないで薬も全く飲まなくなったら

体が少し楽になったのです。
むしろ筋力がつきました。
やってたことが
ぜーんぶ違ったなぁ。となんとなく
感じました。

しかし、まだしんどいのですが、
この痛みはやっぱり精神的なものからだと思うのですが、
通ってたときは気が狂ってたので
どんな診断だったのか覚えてないのです。

家族は私が
怠けているようにしか思えないみたいで。
きちんとした診断を受けた方がいいのか
悩んでいます。今なら自分の症状を落ち着いて話せます。しかし、辛かったピークがすぎてしまったし、見当違いのアドバイスをされたこともあったし不信感があります。
複雑でうまく言えないのですがとても、悩んでいます。金銭面も悩んでいます。
私は
病院=助けてくれなかったという
印象しかないです。でも医療にかかった方がいいのか悩んでいます。まだ体や心がしんどい日があります。どうするのが正しいかわからないです。
毎日具合が悪くなりますが動けるくらいになってます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お医者さんとの相性では。

「お気持ちをお察しします。」とは言えないほど、あなたの苦しみは大変なものなのでしょう。
最初に診察を受けた病院で、運動することを勧められて、悪くなり、お医者さんへの不信感を増幅されたのは、よくわかります。同じ病気に対する処置も、お相手によって適度が異なるものです。

ご病気が悪くなるのであれば、お医者さんを替えてみてはいかがでしょうか。前回とは異なる医師によって、あなたの病気に適切な処置がなされることを期待してはいかがでしょうか。

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有り難し
おきもち

お寺に来てください

まず整形外科に行かれようとしているということは体や顔に自信がないのでしょう。
心療内科に行こうという事も心に自信がないのでしょう。
ぶっちゃけ質問です。
その次も行くことになると思いませんか?
今後も負のループでいく事を繰り返しますよ。
あなたよりも容姿や立場に恵まれていない人でもイキイキしている人たちがいるのはどういうことでしょうか。治すべきところは、その心です。その心をより良くカスタマイズするには、坐禅会がいいでしょう。
埼玉に旅に来るつもりで坐禅会に通ってみませんか。
自分をもっと良くしたい、良くみせたい、自信持ちたい…というその根柢の方を治療する方がいいです。
自分がダメだ、良くないと、卑屈に思うその心は何処にありますか?
今の自分ではダメだ、変えなきゃダメだと思って自分の点数を低くしている自分は何処に居ますか?
あなたの中にあるたった一つの思いです。
あなたが車であるならあなたは、排気ガスしか持っていないと思っているのです。
あなたにはミラーもアクセルもエンジンも、ブレーキもみんな持っている。
その使い方を知らず、排気ガスしか吐いていないような状態です。
自分の全身、全体像が見えていないのです。
だから、あれこれ自分の排気ガス口をいじろうとする。そんな小さなところをいじったって何もかわりゃしません。
整形したらそのいじった所に対して、気に入らなくなってきたりする。
禅を学ぶという事は、その自分に対する良し悪しを思い起こす心そのものをハイクオリティにすることなのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

私は以前病院に、勤めていたので、
患者さんから尊敬されている医者でも、裏ではとても傲慢な人ばかりだと知っています。
だから医者は、みんな嫌いです。
大嫌い!いろんなところ行ったのに助けてくれなかった。
病院なんかに、すがるのももう疲れた。

私は美容整形に行きたいんじゃなくて、
体がちぎれるくらい体が毎日痛いので、
どうにかして欲しいです。

足が地面についた感覚がないのに、
どこもちゃんと見てくれなかった

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