諸行無常とは
最近気づいた事です
生きることそれ即ち失うこと。
それは仏教徒として修行を積んだお坊さんなら当たり前の道理かも知れません。
しかし、親や自分の大切な持ち物、愛する人、遂には自分の命さえも失い、最期は無になる人生に意味はあるのかと考えるとすごく怖くなります。
私は浄土真宗なので般若心経の事は良く分かりませんが、般若心経でも最期は無になる的な事を説いていましたよね?
仏様は無に帰す人生、人間の存在意義についてどう説いておられるのですか?
お坊さんはどうお考えなのか教えてください。
何か上手くいっていても失敗するところを想像して結局そのとおり失敗してしまうところ。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「無」の理解へ.そしてその先へ.
生まれた者が死へと向かうのは確かです.しかしながら,決して無へ帰するわけではありません.仏教で度々説かれる「無」とは何か.少し解説したいと思います.
「無」を考える際に重要なのが,何が「有」で,何が「無」であるかです.全てが無であるわけでもなく,全てが有であるわけでもありません.
「有」であるものは何か.それは,例えば,眼の前にある壺等です.我々は壺を見た時,疑いなくそこに壺が有ると思いますね.その壺は確かに有ります.
それでは,「無」であるものは何か.それは,例えば,我々が実体として有ると思い込んでいる壺等です.壺というのは,土やガラス等の塊からできています.我々は,その土やガラスの塊に対して壺という名称をつけているに過ぎません.壺をハンマーで砕いて粉々にしてしまえば,土やガラスの破片は残りますが,そこに壺は有りませんね.このことからも,不変の壺,実体として存在する壺,それ自体で成立している壺といったものは無いことが分かります.
人間も同じです.今ここには確かに私がいます.しかし,その「私」とは,細胞からできた身体・感受作用等を持つものに対して付けた名称に過ぎません.身体や感受作用等とは別の「私」が有るわけでもなく,不変の「私」が有るわけでもありません.常に変化しながらも,名称としての「私」が存在するのです.
そして,人間は死んでも決して無になるわけではありません.私もあなたも,遥か昔から生まれては死に,生まれては死にを繰り返し,輪廻の世界を巡ってきました.死んだら次は必ず,天・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄のいずれかの世界に生まれ変わります.普段の行いが業という原因となり,結果として次の何れかの世界に生まれ変わります.善い行いをすれば,それだけ楽を得られます.
したがって,人間の存在意義とは何かを問うのではなく,より善く生きためにはどうすれば良いか,輪廻から解脱するためにはどうすれば良いかを考えなければなりません.簡単に言えば,「悪いことをせず,善いことをする」です.これは小さい子供でも分かることですが,老人になってもできることではありません.
寂滅をもって楽と為す
生きることそれ即ち失うこと
そうとも言えるかもしれませんが、失うということはそれが「私のもの」だったということです。
仏教はそこからもう否定してしまうものです。「私のもの」など何一つない、私すらも私のものではない。
だから生死すらも究極的には分けて考えません。生があるから死を失うと考える。生もない死もない。
では、今・ここにいる自分は何なのか。それは数数えきれない条件によって生かされる(成立させられる)私です。
ないはずのものがたまたまある。そのように私のいのちを深く見つめると「失うという事をもいただける」とすら感じられます。
ない・ない・ない の人生から ある・ある・ある の人生へ。あらありがたや、あらもったいなや、あら尊しです。
あなたにとって既にいただいた命を終えたあなたの大切な人の人生は意味のないものだったでしょうか?
あるいは、あなたが今日する食事はどうせウンコになるのだから意味はないものでしょうか。
そういうニヒリズムは先人からなんのタネも受け取っていない人の発想です。せっかくタネを預かったのですから、またあなたも次の世代にタネを渡しましょう。あなたが生きる歩みが誰かにとってのタネとなります。
そして最後までこの命を全うしたからには「寂滅」の世界に還っていきましょう。それぞれがいただいた命が波ならば還る世界は海です。海が実体世界としてあるわけではありません。しかしどんな小さな川も最後は同じ海にたどり着く様に、誰もが還る世界を海に例えています。
さて、釈尊はこう説きます。
無常偈
諸行無常(しょぎょうむじょう):すべての存在は縁により移り変わる
是生滅法(ぜしょうめっぽう):是がこの生滅する世界の法(法則・真理)である
生滅滅已(しょうめつめつい):生滅へのとらわれを滅し尽くして
寂滅為楽(じゃくめついらく):寂滅をもって楽と為す
釈尊は「寂滅」を「無」と悲観的にとらえず、「楽」とみました。この感覚がなかなか伝わらないかもしれませんが仏教では非常に大事なところです。
全ての捉われから解放され、もう再生することのないことこそを究極の「楽」とみます。それを「それなら早く死んだほうが?」としてしまうとしたらそれはまだ「とらわれ(執着)」の中です。
いただいたこの命、意味は無限に生じ得ます。それがあなたが蒔くタネです。
今も瞬間ごとに無に帰している
無に帰するのは、数年後とかの未来のことだけではありません。
瞬間瞬間ごとに無に帰しているのです。
無常とは、瞬間ごとに新しいという意味でもあります。
昨日のあなたの「役」を演じていた「役者」と、今日のあなたを演じている「役者」は、違う役者なのです。
今日は今日の舞台をこなすだけ。
同じキャラを、毎日、毎秒、違う役者がバトンタッチしながら交代している。
だから、昨日のお話がどんなでも、今日演じるキャラかどんな不幸キャラでも、今日は今日を演じるだけ。
目をとじて、深呼吸してから、自分の名前、家族のこと、昨日のできごと、今いる場所を思いだしましょう。
はい、それが、あなた(役者)が今日、今演じるキャラの設定です。
今思い出したのは、思い出したのではなく、キャラ設定をダウンロードしたのです。
あなたの所有物は、今日のキャラの今日のアイテム。
自分であって自分でないのです。
親の顔をよーく見てみましょう。
知ってる顔だけど、本当にずーっとこの人達と一緒にいたのかな?
なんか不思議。
昨日までの記憶はただのデータ。
今の瞬間は今の、新しい自分。
空と縁起
桜子様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
般若心経の説く「無」とは、「実体として成り立っているものの否定」です。
私たちは、モノ・コトが、まるであたかも、それがそのもの自体の側において、独立自存として、永久永遠に変わらない実体的なものによって、あり得ているかのように囚われを起こしてしまう、産まれながらにしての癖がございます。
この癖を難しく申しますと、「倶生の諦執」と言いますが、慈海様の壷の説明がまさに参考となります。
しかし、そのような実体的に成立しているものは微塵も無い(空)として説明されているのが、般若心経となります。
では、何も無いのか、となれば、そうではありません。
現に、私も、貴女様も今、まさに存在しています。
色々と限界はありますが、認識、把捉できているモノ・コトというのも、もちろん存在しています。
ただ、それらは、存在しているものの、そのありようは、他に依存するあり方(縁起)によって成り立っており、最も簡単には、色々な因縁(原因と条件)によってあり得ていて、その因縁次第にて、更に変化していくというものとなります。実体として存在しているのではなく、他に依るあり方にて、変化していくことを「諸行無常」と申すのであります。
因縁次第は、己自身もそうです。これからの自分の赴きも、行い、業の因縁次第にもなって参ります。
世間的な幸せへも、仏教的な究極の幸せである悟りへも、因縁次第。善き因縁を調えることで、善き結果へと向かって参りたいものとなります。
世間的な幸せのためにも、仏教は大変に役立つもので、どうか学び進めて頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
皆様ありがとうございます
形あるものはいずれ無に帰す、形のない愛や絆、因果は永遠に残る
私のやってきた良いことや悪いこと、それが徳や因果になる
そう理解出来ました
生きている限り仏様のお満ち引きで人とは繋がり続けます
そこで私がどう人に慈悲の心で接し、愛するかで私という命がどう意味を持つのか
そう理解出来ました
私の心は救われました
ありがとうございます