一念と執着・執念*強欲と過剰な欲求
どのカテゴリーにしたら良いのか迷いましたが、質問させてください。
「一念」は、岩をも通すとか言って、良い印象があります。
何かを強く強く深く深く一筋に、寝ても覚めてもご飯を食べていても
常に念頭に置くことが出来なければ「一念」とはならない気がします。
でもそればかりで、他はどうでも良いとか、他は全く顧みないとかでは良いことでは無いですよね・・・
一方「執着」と言うと、良い印象は無く、
こだわりが過ぎて身動きが取れないとか、怖れや邪な感じが見え隠れするような気がします・・・
でもこだわりにも、良い意味でのこだわりってありますよね。
「一念」と「執着」は、それぞれどういうことですか?
違いは何ですか?
「一念を通す」とは、具体的にどうすることですか?
そして「執念」とは?
目的や目標を深く思い、諦めるという選択肢は全く無いという状態のように思いますが。
目的を果たすまで何度でも挑み続ける、みたいな。
また、「欲」ですが、
「欲」は誰でも持っていると思いますし、わたしは煩悩の塊です。
「強欲」とは、とても良くないもの、
誰かから奪ったり搾取したり、人を傷付けてでも手に入れようとすることのように思います。
「過剰な欲求」は、どこからですか? どんなことですか?
独り占め的なことは当てはまる気がします。
それから、相手の気持ちを甚だ無視した要求や押し付けみたいなこと。
大変申し訳ございませんが、
解りやすく噛み砕いてご教示頂けましたら幸いです。
もし仏教としてのそれと、社会通念上のそれに違いがあるという場合は
それぞれを知りたいです。
わたしの長年の疑問です。
ご回答頂けましたら有り難く存じます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【新規質問推奨】【字数制限】説明がかなり難しいご質問です。
ある言葉が表す意味について、仏教用語としてのそれと、社会通念上のそれとはおっしゃる通り違うことが多々あります。しかし仏教の話をしている時であっても社会通念上のそれに則って話をすることもありますし、また同じ仏教であっても北伝仏教(大乗仏教)と南伝仏教(上座仏教)でも多少の違いがあったり、日本の大乗諸宗派の中でさえ違いがあったりします。
ですから単純に「語義」をお尋ねしたいのであれば仏教語辞典を購入いただきお調べいただく方が確実です。
なので本回答は語義それぞれという「各論」ではなく、なんとなくこんなことが知りたいのかな?という「総論」にて回答してみます。詳しくは辞典をご覧ください。
「欲」については色々なものがありますが、社会通念上の様なものとしては
マズローの欲求5段階説
https://jibun-compass.com/maslow
がわかりやすいかなと思い上記を貼ってみます。
では仏教ではどうなの?マズローの説の中で言うならどこまでが「欲」で、どこからが「強欲」なの?とか、どれなら「良い欲」で、どれなら「悪い欲」なの?とか考えるかもしれませんが、どんな欲でもそれが根本煩悩である「無明(むみょう)」から起こっているものである限り全部「欲」は「欲」であり、仏教においては単純に肯定されるものではありません。
「無明(むみょう)」とは根本的無知、真理に暗い事、まあ…智慧がない事です。智慧がないというのはお勉強ができないとか節度がないとかそういうことではなく、物事を正しくありのままに見る(見ようとする)力(智慧)が欠如しているという意味です。
この無明煩悩がある限り、私たちは縁(えん)、つまりその時々の環境や条件によっていろんな「思い」を起します。
その「思い」が仏教学上、あるいは社会通念上の意味で「執念」「執着」「強欲」「過剰な欲求」などと様々に表現されるケースがあるということです。
なお、こうやって色々分析して分けて考えたり評価しようとしたりするのも「無明」がゆえの「分別(ふんべつ)」「分別心(ふんべつしん)」によるものです。
なお、「一念」についてはどのような文脈でお聞きされたのかわかりませんが、仏教語としては基本的に「時間の単位」の様です。しかし浄土門系では「念仏の数」だったり、天台宗では別の意味だったりと全然違いますのでご注意を。
こんにちは。
あなたの解釈通りで良いと思います。
手元の辞書(新明解第六版)によると「一念」は、「何かをしようと一筋に思いつめた心」とあります。何か志をもって、それに向かって努力する事といった感じでしょう。
同じ辞書に「執着」(しゅうちゃく)は「その事ばかり心に思い忘れられない事」とあります。仏教では「しゅうじゃく」と読み「事物に固執し、とらわれること。主に悪い意味で用いられ、修行の障害になる心の働きとする」(Wikipedia)とあります。
「これさえあれば、これさえなければ」と、しがみつく様子です。
お金に例えれば、「これをやって人のために立ち、お金持ちになろう」が一念で「お金さえあればこういうことができるのに。ああお金が欲しい」が執着といったところでしょう。
欲については、「少欲知足」という言葉があります。欲を少なくして、足りている事に気づくということです。そこに線引きは難しいですが、少量であっても必要以上なら「過剰」といえましょう。またたとえ人の役に立ちたいとか仏教をもっと学びたいなど、どんなに高尚な欲であっても、あなたのおっしゃる通り、人を押しのけたり、他人に迷惑をかけるなどして達成させようとするのは「強欲」といえましょう。
質問者からのお礼
法覚寺 吉武文法 さま
ご回答有り難うございます。
この質問を小学生がした場合も同じ回答をなさいますか?