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自分が分からない

回答数回答 2
有り難し有り難し 18

前の仕事を辞めてから次の仕事を探す気力が無くなりました。
『世の中何とかなる』と何の根拠のない気持ちだけで生きていて何も出来ません。

実際には生活する為のお金も必要なのですが家族から借りて払ったり払えるあてのないカードから借りて借金苦になってます。
危機感と言うかやる気が湧かなくなりました。
20〜30代の頃は『◯日は支払いだから今のうちに、』とか危機感や計画性がありましたが今では支払いが来ても(近くなっても)何も感じなくなりました。
もちろん贅沢している訳ではなく食事も食べないで済まします。
とにかく何も感じなくなりました。空腹になればお金払って食事、その食事のお金を稼ぐ。
こんな当たり前の事が出来ない自分が分からないです。
死に対して恐怖もなく毎日、自殺という事ばかり考えてしまいます。
親に叱られたり叱責されますが心が壊れてるのか『こんな息子ですいません、早く死にたいです』としか考えられなくなりました。
まともに回復出来るでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ダラダラ生きる

ダラダラとでも生きたいのか、今すぐ死にたいのかわかりませんが、
死は黙っていても向こうからやってくるので心配はいりません。
問題は生きたい場合。
ダラダラとでも生きたいんだとなれば
借金はゼロに。あなたには破産財団、つまり分配するだけの財産は皆無でしょうから今すぐ司法書士事務所で申し立てを。
弁護士を利用すると高いですからね、利用するなら司法書士です。
申し立てと同時に破産が解止し、免責許可決定が下りるでしょう。
破産が解止しても借金返済義務は消滅していません。破産申し立てとは破産財団の確認作業であり義務の消滅ではないことを覚えておいてください。
免責、つまり返済義務はありませんよと裁判所からお墨付きをもらってはじめて返さなくてよくなるのです。実質的に借金ゼロに。
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親に立て替えてもらうのはダメです。
また、立て替えて貰えばいいという経験と甘えしか残りません。
これは、僕が司法書士事務所に勤務した中で職務上何人も破産申立をしました。その申立のための事情聴取を僕は嫌というほど重ねてきましたから、顛末をしっているのです。親親戚の立て替えは絶対に頼ってはいけません。
下手をすれば免責不許可事由と見做されかねません。一応専門家でしたから申し上げておきます。
とにかく自力で解決できなければ同じ事の繰り返しです。男なら腹をくくるときはくくれ!ということです。
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今さえ助かればいい。これは同じ過ちを繰り返す種です。今しっかりと苦しみなさい。やり直すための苦しみから逃げるな。
法華経という教えの中で仏様はそう仰っているのです。法華経は今救うだけでなく、未来のあなたを救う、そのために今を厳しく申し上げているのです。
その後の人生はあなたの気持ち次第です。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

一度自分の物を全部捨てる

カードの無い人生を。
まずはゼロ円から始めましょう。
無いものがあるようになってしまうカードや、無いのにあることにしてしまう借金をやめる。
ゼロから始めればいいのです。
周りのサポートも打ち切る。
全部自分のたくわえとして始めていく。
借金は危機感を無くします。
ゼロが最後です。
マイナスを作ってはいけません。
ゼロにすることです。そこからは上がっていくだけです。
マイナスを持つと自分を甘やかします。底なし沼だからです。
たとえばリスの世界ならドングリをゼロからためて無くなったらそれっきりです。
マイナスなんてことは概念でしかありえないことです。
実物だけを相手にしましょう。
今後一切カードも何も持たない。借金もしないからを条件に親にたて替えてもらって働くことです。
自分を死なせるのは自分。自分を暗示にかけてはいけません。
どこかでそう思い込みたいところがある。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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