現実の証明はできるのですか?
漠然ととした質問で申し訳ありません。
本当に目の前にある現実は現実なのでしょうか?
というのも、なにか失敗した時に「あー、夢だったらいいのに。リセットできたらいいのに」と漠然と思った時、今目の前の状況が現実であることはどうやって証明出来るのかと考え始め、答えはそのまま出ませんでした。そもそも答えがある問かどうかも分かりませんが、皆さんはどのように考えますか?教えていただきたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
もうぞう
リョータさん。
このご質問に科学的な見地からなど、色々な答えや導きがあるかな!と思うのですが、
仏教的には
人間があれこれ考えることを
『妄想』といい、嫌います。
「もうそう」ではなく「もうぞう」と読みます。
世の中は澄むと濁るで大違い、ハケに毛はありハゲに毛はなし。
と謳われているように、
思春期の頃大好きだった「もうそう」とは違い、
あの頃あぁしていれば。とか、あんなこと言わなきゃ良かった。とかを始め宇宙の始まりはいかに?とかスプーンを曲げる超能力は一体全体なんなんだ?とか、
数えあげてはキリがありませんが、
私たちが日常よくよく行う
後悔、反省、予測、証明。等
考えたり、悩んだりしていることすべてを仏教では『妄想』(もうぞう)と呼び嫌うのです。
なぜなら私たちは色眼鏡をかけているからです。
何色かは人それぞれですが、ものごとを知らず知らずのうちに自分色のメガネ越しに見ているので事実、真実をそのまんま受け取ることができないんですね。
なのに、メガネをかけた上でそれぞれに思考し、議論をぶつけ合ったりする。
土台見方、聞き方が間違っているのに、あぁだこうだと考え、悩んでいるのです。
あまり褒められたことではありませんよね。
現実の証明。
わかります。リョータさんのお気持ちもわかるのですが、
それを考え、悩むことにリョータさんは幸せを感じますか?
『妄想』ではありませんか?
頭であぁだ、こうだ。
色眼鏡をかけてあぁだ、こうだ。
よりも、あなたが生きているという現実はもっと体で、全体で感じるものではないかと思います。
今あった!しかし無い。
現実は今あるでしょ。
目の前に。
机をさわれば感触が、ほら!
でもそれは離せは、跡形もなく消える。現実は現実でありながら、握ることができない。今、あったことは、1秒後には過去の記憶となる。そういうものです。未来もない、過去もない、生まれて初めてのことの連続。毎朝食べるお米も、昨日のお米とは違うのです。運転する車も、仕事も、同じことをしているようなつもりでも人生初のことばかり。そして、無常であるのです。