煩悩
煩悩とは欲の事を示すのですか?自利?
それなら「ひとの役に立ちたい」「優しくなりたい」も欲のうちに入りますか?
よく、無の境地と言いますがなにも思い描かない心が無欲という事ですか?
今まで誰かの役にたてればと強く思い生きてきましたが 最近では違和感を感じます。他人の為にと願う気持ちも実は自利ではないのかと....
無欲とは心にいっさいの願望を思い浮かべない事なのかと。仏教の解釈、お坊さんの解釈で結構ですので参考にしたいです。
生命と向上心に執着してしまう。 自利と他利の区別に迷ってしまう。 他人に与えすぎるという行為は実は 自利から発するものなのか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ダライ・ラマ法王とレディ・ガガの対談より
欲望は、それ自体では煩悩ではありません。
食欲、性欲、睡眠欲。これらは生きるために必要なもので、また生命の根源でもあります。
しかし、その欲望に執着したちき、そこに貪欲(むさぼり)が生まれます。
貪りはじめると、いつまでも満足しない、十分に手に入らないことによる瞋(いかり)が生まれます。
そして、いかりは冷静さを奪い、エゴとなり、痴(おろかさ)となります。
これが、煩悩の根源である三毒「貪瞋痴」です。
つまり、欲望に執着が生まれ、「もっと欲しい」「ずっと欲しい」と思い始めた時初めて煩悩になるのです。
「楽しむために食べるんじゃない、生きるために食べるのだ」ということですね。
また、真言密教では、人を救いたいという菩薩の欲を「大欲」といいます。
同じ欲望でも、ベクトルによって愚かな煩悩から菩薩に境地まで姿を変えるのが真言密教の教え。
かつて、ダライ・ラマ法王とレディ・ガガさんが対談した時に、法王はガガさんに
「あなたはもっとお金を稼ぎなさい。
自分のためでなく、貧困や差別にあえぐ人のためにお金を稼いで、使いなさい」と言いました。
これこそがまさに密教の欲望に対する考えで、「お金を稼ぐ」という行為そのものに善悪はなく、その目的によって煩悩にも菩薩の境地にもなるという、ダライ・ラマ法王の見事な説法だったわけです。
そうした、欲望のベクトルを変えることを「煩悩即菩提」と言います。
なので、欲望というのは、その使い道で毒にも薬にもなるということですね。
不悪口院 恵成でした。
むぅ
仏教の言うところの無は0じゃないんです。
左の掌に自分を乗せます。右の手の掌に他者を乗せます。これを1つにします。ハイ、これが無です。または合掌とも言います。
1ー1=0が無ではありません。
1+1=無なんです。
何でかって言うと、そもそも1って何をもって1なの?という話だからです。
右手左手って言いますけど、人間と言った時には右手も左手も人間の中に隠れてしまってるわけです。じゃあ右手左手で1なの?人間で1なの?と。
あなたと私だって、地球と言った時にはあなたも私も地球の中に隠れてしまう。じゃあ、あなた私で1なの?地球で1なの?と。
そう考えてみると、1って脳みそで「これが1ということにしましょうね」と定義しているから1なのであって、本質的に1というものは無いんです。右手であって人間であって地球なんです。だから右手と左手を足しても地球だし、あなたと私を足しても地球だし、地球に地球足しても地球なんです。それを無と呼び、あるいは仏と呼ぶわけです。
だから他人のことも自分のことのように大切にする。だって自分だもん。当たり前じゃん。それが悟り。「ひとの役に立ちたい。」結構なことです。立派立派。
でも逆に、他人は他人。私は私。カンケーねぇや。イジメたろ。こういう考え方を「痴(ち)の煩悩」、つまり愚かさの煩悩と言います。いや、それ自傷行為だよね…と。
あるいは他人は他人。私は私。カンケーねぇや。他人のためになれば私のことだってどうだってイイや。これも実は「イジメたろ」と同じ発想です。「ひとの役に立ちたい。」そりゃ偽善ですぜ。
無の境地?あんなもんアニメの見過ぎです。十三代目石◯五右衛門とかあの辺の精神修業です。
「自分のため」と「他人のため」が1つになる。そこに本当の優しさがあります。
煩悩は悩みを生み出す心の働き。無心はとらわれない心の状態。
こんばんは。亀山純史と申します。
煩悩とは、欲というよりも、私自身の悩みを生み出す心の働きではないでしょうか。私たちは欲がなければ生きていけません。「人の役に立ちたい」「優しくなりたい」という思いそのものは煩悩ではないでしょう。しかし、人に対して優しく出来ないとき、そうさせている心の働きが煩悩ではないでしょうか。また、人に優しくしているときに、相手からお礼の言葉がないと腹立たしく思う心の働きも煩悩でしょう。
ですから、「他人の為に」と願う気持ちは、本来、煩悩ではないはずですが、他人の為に物事を行うことは、実は私達には難しいことなのです。親切心からやったことに文句を言われれば腹が立つのが私達です。腹が立つのは、そこに「自分は人の為にやっている。」という心があるからです。この「自分は人の為にやっている。」という心は、利他ではありません。一方、そのような心は、決して自分の為にもなってはいませんから、自利でもありません。本当の自利は、利他に繋がるものなのでしょう。「自利即利他」です。そしてそのような生き方は、「これは自分の為、自分の益になっていること(自利)だ。」「これは人の為、人の益になっていること(利他)だ。」という思いにとらわれない心の状態で物事を為すところに生まれてくるのです。そうして、そのような心の状態が、無心や無欲ということだと思います。
以上が私からの回答です。ご参考になれば幸いです。
煩悩は欲とはちょっと違います
拝
まず欲には三種ございます
一個は悪い欲
もう一個がどっちでも無い欲
最後は自分を高めるための善い欲
おっしゃる通り優しくなりたいとは
貴女の善い欲ですね
ここで無欲については特に仏教で目指す所では無い事がお分かりいただけたと思います。
無の境地は没頭している状態で確かに無欲の状態を指すものです。
さて、世の中では通念的に善いとさせているものでも本質的に悪いものもあり、反対に悪いとされるものが本質的には実は善いという事は歴史的にも沢山あります
ここで申したいのは、利己や欲が 悪いわけではないということです
もし利己が無ければ
生命的難局を生き抜く事は出来ませんから命は繋げず私達はこの世に存在すらしてい無い事でしょう
もし利他を正しく行っている者であればいつかは利他行為を行っていると同時に若しくはその後に何か頂いている事に気がつく事でしょう。
むしろ与える方も得ているよう感じるという状態で利他行を行う中で通る道でございます
とにかく
無欲な人間なんてまるでお化け
私達に必要なのは悪い欲に振り回されず善い欲を実行する事でございます
全ての問いに答えられたか分かりませんが
満たされますよう
合掌
質問者からのお礼
沢山のアドバイスを有難うございます!
参考にさせて頂きます。人の役に立つ人間になりたいという欲も大欲と言う欲があるという事ですが、自分の日々の行いを改め己の人間的成長を志す事が優先なのかもしれません。それを無くして他人を芯から思うことは出来ないのかも知れませんん。以前に自分が助けられた経験から今度は私が周りの方々に受けた恩を返して行きたいと自然に思えたのですが