hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
2019年のあなたを表す漢字 募集中

煩悩

回答数回答 5
有り難し有り難し 63

煩悩とは欲の事を示すのですか?自利?
それなら「ひとの役に立ちたい」「優しくなりたい」も欲のうちに入りますか?
よく、無の境地と言いますがなにも思い描かない心が無欲という事ですか?
今まで誰かの役にたてればと強く思い生きてきましたが 最近では違和感を感じます。他人の為にと願う気持ちも実は自利ではないのかと....
無欲とは心にいっさいの願望を思い浮かべない事なのかと。仏教の解釈、お坊さんの解釈で結構ですので参考にしたいです。

2018年9月20日 20:05

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ダライ・ラマ法王とレディ・ガガの対談より

欲望は、それ自体では煩悩ではありません。
食欲、性欲、睡眠欲。これらは生きるために必要なもので、また生命の根源でもあります。
しかし、その欲望に執着したちき、そこに貪欲(むさぼり)が生まれます。
貪りはじめると、いつまでも満足しない、十分に手に入らないことによる瞋(いかり)が生まれます。
そして、いかりは冷静さを奪い、エゴとなり、痴(おろかさ)となります。
これが、煩悩の根源である三毒「貪瞋痴」です。
つまり、欲望に執着が生まれ、「もっと欲しい」「ずっと欲しい」と思い始めた時初めて煩悩になるのです。

「楽しむために食べるんじゃない、生きるために食べるのだ」ということですね。

また、真言密教では、人を救いたいという菩薩の欲を「大欲」といいます。
同じ欲望でも、ベクトルによって愚かな煩悩から菩薩に境地まで姿を変えるのが真言密教の教え。

かつて、ダライ・ラマ法王とレディ・ガガさんが対談した時に、法王はガガさんに
「あなたはもっとお金を稼ぎなさい。
自分のためでなく、貧困や差別にあえぐ人のためにお金を稼いで、使いなさい」と言いました。
これこそがまさに密教の欲望に対する考えで、「お金を稼ぐ」という行為そのものに善悪はなく、その目的によって煩悩にも菩薩の境地にもなるという、ダライ・ラマ法王の見事な説法だったわけです。

そうした、欲望のベクトルを変えることを「煩悩即菩提」と言います。
なので、欲望というのは、その使い道で毒にも薬にもなるということですね。

不悪口院 恵成でした。

2018年9月21日 0:02
{{count}}
有り難し
おきもち

女は愛嬌、坊主は読経。 真言宗僧侶・不悪口院 恵成(ふあっくいん けいせ...

無とは一切の計らいを抜くこと

ご質問を拝読させて頂きました。
煩悩には細かい種類に分かれていて、世間で言う欲は「貪欲」「渇愛」という煩悩に当たります。
人の役に立ちたいという思いもそれが純粋であれば欲ではないでしょう。
しかし、そこに「感謝されたい。」という思いが生じたり、自分をよく見せようとする気持ち、リターンを求める気持ちが入ると途端に濁ります。
そういう「計らい」を抜いたものが無の境地と言えます。
でも、これが本当に難しい。

例えば、我々が道徳として学んだものにも、「信頼されたいのであれば嘘をつくべからず。」みたいなものがありますよね。
計らいを抜くというのは、信頼されようがされまいが関係なく、嘘をつかないという事なんです。
これをカントは「定言命法」「真の道徳」と呼びました。
また、仏教では、善悪を超えるという表現が用いられる事があります。
悪い事をしているときは勿論のこと、良い事をしているときでも私たちは「今、良い事をしているな。」と意識します。
しかし、その善の意識すらしない。
困っている人が居れば、「ただ手を差し伸べる。」
これが、善悪を超えるという事です。
そういう人間になりたいものですね。

2018年9月20日 22:26
{{count}}
有り難し
おきもち

臨済宗寺院の住職です。皆様の良き御縁となる事が出来れば幸いです。

むぅ

仏教の言うところの無は0じゃないんです。
左の掌に自分を乗せます。右の手の掌に他者を乗せます。これを1つにします。ハイ、これが無です。または合掌とも言います。
1ー1=0が無ではありません。
1+1=無なんです。

何でかって言うと、そもそも1って何をもって1なの?という話だからです。
右手左手って言いますけど、人間と言った時には右手も左手も人間の中に隠れてしまってるわけです。じゃあ右手左手で1なの?人間で1なの?と。
あなたと私だって、地球と言った時にはあなたも私も地球の中に隠れてしまう。じゃあ、あなた私で1なの?地球で1なの?と。

そう考えてみると、1って脳みそで「これが1ということにしましょうね」と定義しているから1なのであって、本質的に1というものは無いんです。右手であって人間であって地球なんです。だから右手と左手を足しても地球だし、あなたと私を足しても地球だし、地球に地球足しても地球なんです。それを無と呼び、あるいは仏と呼ぶわけです。

だから他人のことも自分のことのように大切にする。だって自分だもん。当たり前じゃん。それが悟り。「ひとの役に立ちたい。」結構なことです。立派立派。

でも逆に、他人は他人。私は私。カンケーねぇや。イジメたろ。こういう考え方を「痴(ち)の煩悩」、つまり愚かさの煩悩と言います。いや、それ自傷行為だよね…と。
あるいは他人は他人。私は私。カンケーねぇや。他人のためになれば私のことだってどうだってイイや。これも実は「イジメたろ」と同じ発想です。「ひとの役に立ちたい。」そりゃ偽善ですぜ。

無の境地?あんなもんアニメの見過ぎです。十三代目石◯五右衛門とかあの辺の精神修業です。

「自分のため」と「他人のため」が1つになる。そこに本当の優しさがあります。

2018年9月21日 2:41
{{count}}
有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み) 最近YouTubeを...

煩悩は欲とはちょっと違います


まず欲には三種ございます
一個は悪い欲
もう一個がどっちでも無い欲
最後は自分を高めるための善い欲
おっしゃる通り優しくなりたいとは
貴女の善い欲ですね
ここで無欲については特に仏教で目指す所では無い事がお分かりいただけたと思います。
無の境地は没頭している状態で確かに無欲の状態を指すものです。
さて、世の中では通念的に善いとさせているものでも本質的に悪いものもあり、反対に悪いとされるものが本質的には実は善いという事は歴史的にも沢山あります
ここで申したいのは、利己や欲が 悪いわけではないということです
もし利己が無ければ
生命的難局を生き抜く事は出来ませんから命は繋げず私達はこの世に存在すらしてい無い事でしょう
もし利他を正しく行っている者であればいつかは利他行為を行っていると同時に若しくはその後に何か頂いている事に気がつく事でしょう。
むしろ与える方も得ているよう感じるという状態で利他行を行う中で通る道でございます
とにかく
無欲な人間なんてまるでお化け
私達に必要なのは悪い欲に振り回されず善い欲を実行する事でございます
全ての問いに答えられたか分かりませんが
満たされますよう
合掌

2018年9月20日 21:55
{{count}}
有り難し
おきもち

煩悩は悩みを生み出す心の働き。無心はとらわれない心の状態。

こんばんは。亀山純史と申します。

煩悩とは、欲というよりも、私自身の悩みを生み出す心の働きではないでしょうか。私たちは欲がなければ生きていけません。「人の役に立ちたい」「優しくなりたい」という思いそのものは煩悩ではないでしょう。しかし、人に対して優しく出来ないとき、そうさせている心の働きが煩悩ではないでしょうか。また、人に優しくしているときに、相手からお礼の言葉がないと腹立たしく思う心の働きも煩悩でしょう。
ですから、「他人の為に」と願う気持ちは、本来、煩悩ではないはずですが、他人の為に物事を行うことは、実は私達には難しいことなのです。親切心からやったことに文句を言われれば腹が立つのが私達です。腹が立つのは、そこに「自分は人の為にやっている。」という心があるからです。この「自分は人の為にやっている。」という心は、利他ではありません。一方、そのような心は、決して自分の為にもなってはいませんから、自利でもありません。本当の自利は、利他に繋がるものなのでしょう。「自利即利他」です。そしてそのような生き方は、「これは自分の為、自分の益になっていること(自利)だ。」「これは人の為、人の益になっていること(利他)だ。」という思いにとらわれない心の状態で物事を為すところに生まれてくるのです。そうして、そのような心の状態が、無心や無欲ということだと思います。

以上が私からの回答です。ご参考になれば幸いです。

2018年9月20日 23:07
{{count}}
有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...

質問者からのお礼

沢山のアドバイスを有難うございます!
参考にさせて頂きます。人の役に立つ人間になりたいという欲も大欲と言う欲があるという事ですが、自分の日々の行いを改め己の人間的成長を志す事が優先なのかもしれません。それを無くして他人を芯から思うことは出来ないのかも知れませんん。以前に自分が助けられた経験から今度は私が周りの方々に受けた恩を返して行きたいと自然に思えたのですが

「煩悩」問答一覧

煩悩も欲も消さなくていい。

煩悩も欲も消そうとする必要はない。この世の理(ことわり)だから。 煩悩や欲はありのままの心の在り方であり、決して消えるものではなく、そのままを受け入れることでその縛りから解き放たれる。 辛い苦しい悔しい腹立たしいだけでなく、ありがとうと感謝の言葉を発することも、何か良いことをするという徳を積む行動も、お念仏さえ煩悩や欲のひとつである。煩悩と欲は人として生きるには逃れられないものである。 また、煩悩は108あるという。言葉遊びではあるが永遠(とわ)とも読める。 これは、煩悩や欲などはこの世の時空間が始まる時から(科学的にはビッグバンか)終わるまでの限られた「永遠」という中に存在することを意味する。 煩悩がこの世の物理的な法則決まりごと、欲が化学結合などを起こすエネルギーとして考えるなら納得してもらえる人もいるだろう。宗教や哲学、科学などは人のごく限られた能力の中で作られたものであり、大した差はない。 別の世、違う時空間には違った煩悩や欲があるだろう。 人は人としてこの世に産まれる前から生命体(あるいは物質)として遥か昔から存在し、煩悩と欲のおかげを受けながら、産まれてからだけでなく、死んだ後も物質やエネルギーとして森羅万象の中で存在しつづける。 自分とは?自分はなぜ?ということに捕らわれず、今の状態、周りの言動はその存在を認め、自分の感情をはじめ、他人の行動や起こった出来事は仕方がないと赦して労わり、その経験をありがたしと感謝しながら、経験を活かして自分の趣くままに行動する。 そうして、普遍的に存在する煩悩や欲にも感謝しながら、うまく活用できれば、自ずとこの世も極楽と気づくことができる。 悟ることができて仏になるであろう。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

【暴言多め】ちくしょー!私は煩悩の塊だぞ!?

乗っけから乱暴ですみません。 ここでしか言えないので。周りの人は、 「怖いと思ったら、離れなさい。 それが今あなたにできる事」 と言います。 でも、私だって楽しみたい! 他の人みたいに、安心して遊びたいし、 歩きたいし! カワイイ子いっぱいいるだろ! 何で私なんだよー! 私からは、「とても感じのいい、 人から頼られやすい雰囲気」 「内面の良さが外面に」 出ているそうです。不思議です。 正体はこのザマですよ?描く絵だって 血生臭いし。結構物騒な事も考えて ますよ? 最近は、生来の防衛本能(霊感と 呼んでます)が大暴れしています。 一歩道を歩いて、男性とすれ違えば 下を向いて横目で警戒。 目を見なくても、 「こいつ、ヤベェぞ」 と頭の中で 警報が鳴ります。 いつ絡まれないか、手を出されないか。 現実、いきなり手を振って近づいて こられそうになった事もあります。 人混みに出て、後ろに男性が来れば、 ソワソワ落ち着きがなくなり、 睨みつけたり、徐々に離れたりと言った 目立った行動をとります。 あとは、防犯ブザーをちらつかせ たり、付属のレーザーライトを カチカチ点滅させてしまったり… これで、逆に話しかけられた事も あります。怖いんだよ畜生が! 要は威嚇です。 同性もしかり。私が前を通過すると、 目で追われたり。迷惑なんだよー! 最近は、この本能大暴れのせいで 今年2度目の風邪をひきました。 暴言三昧ですみません。 聞いて欲しかった、それだけです。

有り難し有り難し 22
回答数回答 1

光合成するペット(自然と煩悩)

私の中学生の時の「将来の夢」は、「動く植物を開発すること」でした。 一番興味があったのが、『地球温暖化』全般。一番、地球温暖化を促進されるのが牛のゲップと聞けば、「ゲップし難いエサ(植物)の開発」を、生き物(動物)が出すCO2を吸収しているのは緑(植物)だと習えば、「とんな場所でも行ける緑(植物)の生き物(動物)の開発」を、と考えてきました。 自分が排出するCO2は、自分のペット(動く植物)に吸収してもらい、酸素をまかなう。そういう世の中、地球に優しい生き方が出来る社会にしていきたいと思っていました。 それで、中学生の時も高校生の時も、農学部に行きたい!新しい環境作りに貢献したい!と思い続けていましたが、幸か不幸か、何故か勝手に出された推薦入試の願書→受かったら辞退出来ない受験に合格してしまい、長年の夢を変更するしかないという形で幕を閉じました。 でも、高校1年生の時に被災(阪神淡路大震災)した記憶のせいか、医学を学ぶのも楽しかったので、新たな道を歩む決意をしたのです。 そして、「只今」違う生き方をしながらも、ふとしたことから、また「動く植物」が必要なのではないかと思い、過去の自分の夢を思い出すようになりました。 西日本豪雨災害に遭ったからからです。もちろん、根本的には『地球温暖化』が背景にありますが、今回は『豪雨による土砂崩れ』でたくさんの尊い命が失われた背景から、人の手が入らない山、森の木々たちが、自分で動いて、土砂災害を防ぐ働きをしてくれたなら、少しは亡くなる方が減らせたのではないかと思ったのです。 でも、人間が、自然・地球をこうなるまで放置し、対策を練らなかったのもまた事実。 私は有馬温泉の近くに住んでいます。避暑地でもあります。が、最近、自分の部屋にデジタル式の温度計を置くようになり、自分の部屋の温度が、冬と夏で「なぬっ!!!」と思う程、寒暖差があることが判明しました。(昔と明らかに違うと肌でも感じられますが)。 この今年の猛暑、酷暑。北の端の1番涼しいハズの部屋の温度が、35度に到達しているではないですか。この前の冬には、部屋の中なのに氷点下になっていたのにです。 何故、もっともっと『地球温暖化』のことをちゃんと考えてこなかったのかと痛感している毎日です。 お坊さま達も、お寺さんの中で熱中症になっていませんか? 地球温暖化をどう捉えていらっしゃいますか?

有り難し有り難し 28
回答数回答 4

アカウントの『私の煩悩:』の変更

初めてhasunohaを訪れた際、アカウントに『私の煩悩:』を記す欄があったので、何となく、ふと思い付いたことを書きました。 私が書いたのは、『よく「未来は自らの手で切り開くもの!」と言われるが、未来に希望が見出だせないでいる。』というもの。 ただ「解答用紙に、何か書かないと」というような思いだけで書きました。いい加減な書き方をして、すみません。 しかし、訪れて10日ぐらい経った今、「何か違う」「なら書き直そう」と思いました。ある投稿を読んだのがきっかけです。ここからが、私が未熟であるからこそ生まれた煩悩になります。 新しい『私の煩悩:』 (来世なるものを自ら決められるのだとしたら)次は男に生まれてみたい、という煩悩が生まれたこと 変更理由:①私が今、女であるから。②私は男として生きたことがないから。③なってみなきゃ分からないことがあるはずだから。 以上。 しかし、来世に、また人間として生まれてくる可能性も確率も分からぬまま、容易くそんなことを言えた義理じゃありません。もし人間になれたとしても、今の、現世の「女」の記憶が残っているものでしょうか。 以前、私は『プチトマト』というタイトルの質問を致しました。「私の前世はプチトマトだ!」と小2の私が直感的に思ったことを書きました。ですが、残念ながら「プチトマトの記憶」はありません。ただ「ハッ!」と閃いただけだったのでしょう。 今は、煩悩も「心境の変化は日常茶飯事」と同様の仕組みではないかと感じております。 哀しくも、女の私には、男のことは分かりません。それと同じように、男の人も、女のことは分からないのではないでしょうか。 「どちらが有利・不利」など、両者を経験した者にしか分からないことです。つまり、「そんなこと言っても仕方ない」「誰にも分からないのではないか」と思っています。 そんなことに腹を立てているから、「怒という煩悩」が生まれてしまうのではないか、と、只今感じております。 しかし、まず性別が「男と女しかない」と思っていること自体、『無知』であり『偏見』『差別』ではないでしょうか。 この時代に「男になりたい」「女になりたい」というのは、短絡的過ぎるような気がしてなりません。それなのに、私の頭にムダな煩悩が浮かびました。 どんなご意見でもご批判でも、受け止めます。皆様のお心の内をお聞かせ下さい。

有り難し有り難し 15
回答数回答 2

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る