出家して良かった宗教っていいなと思われることはありますか?
既出の質問でしたら申し訳なく思います。
お坊様に拝聴したい
タイトルの言いたいことは自分の宗教を決めて良かったと思うか
ということになります。
私の実家では真言宗です(神道もやってます)。
私自身、信教することになんら不思議はないのですが、私は次男分家の立場で、自由にしなさいといわれております。
特に宗派、宗教を決めずに郷に入れば郷に従えで生きていました。
ただ、色々と話しを聴いたり勉強していく中で「なるほど先達の言うことにも一理あるな」と思っています
色々と悩み・障害・苦・反省を繰り返す今の自分の生き方に案内をお願いしたく存じます。
よろしくお願いします。
・会社方針に従わない管理職に強いストレスを感じる ・自分が前に進みつつも「このままで良いのか」「立ち止まるべきか」迷っている
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
もっと大きな宗教心を持ちましょう
何処に生まれても人間は元々無宗教。
親の宗教が何であれ、周りの宗教が何であれ、本当に真実を求めている人は宗派枠に収まらない。
ある時に本当に宗教心に目覚める。
それは宗派ではない。
宗派の隔て以前の自己。
うどんもチジミもパスタもパンもなんも素材はみな小麦。
カタチが重要なんじゃない。
ラベルが重要なんじゃない。
あなたのいう
❝いいなぁ❞ってことが大切。
どんな宗派にも「いいなぁ」はある。
それは宗派の側にあるというより、それを学ぶこちら側に生ずる感覚。
だから「あなたはその宗派でなければならない」とかいう宗派はちょっと息苦しい。
私は、曹洞宗ではありません。
たまたま曹洞宗のお寺に生まれ、曹洞宗で学びましたが、曹洞宗の道元という人は、
仏道を求める人たちに「禅宗とも言うな、曹洞宗とも言ってもならない」と説いています。
それこそが、本当の宗教心です。
誰もが救われる隔ての無い広い心。
あなたの生じる、障害、悩み、苦しみ、反省には、もともと「私が介入しなければ」苦しみにも悩みにもならなかったはずです。「わたくし意識」「私」という思いを手放すのです。
この身がこの身でありながら、わたくし意識だけを滅却すると、苦しみや悩みが無くなる。
それが坐禅であり、念仏であり、阿字観、真言、仏行なのです。
色々語りたい心をグッとこらえて…
決めてはいますが、それは自分の中に切り口を用意しているだけであって、他はしない!という性質ではありません。実際に志願して上座部仏教の修行をさせていただいた経験もあります。
専門分野を持つと、関連分野の理解と応用も捗りますね。私にとってその切り口が仏教であり、曹洞宗です。
仏教系大学のゼミのテーマは『華厳経』でした。その中で「一即一切、一切即一」を学びました。するとそれは仏教の根本思想である「縁起思想」のモデルチェンジであって、結局同じことを言ってるのだなと気付きました。そうしたら次は、なんだ、「色即是空・空即是色」も「一念三千」も みんな同じじゃない。すると…というようにポンポン繋がっていきました。
言ってみれば積分を切り口に勉強したことで、図形の面積を計算するのにタテかけるヨコでも、積分でも結果は同じ。ただ用途によって向き不向きがるだけということに気付いたわけです。(数学弱いのでトンチンカンなことを書いていたら申し訳ございません)
だから宗教宗派を決めて良かったかというよりも、決めないと始まらなかったし、決めたことでかえって1つにこだわる必要が無くなったと言った方がしっくりきます。
先達の言うことにも一理、ですか。キッカケはそれで良いと思いますよ。『阿含経』(あごんきょう)という古い仏教経典がありましてね、その中のお釈迦さまの項で最初に扱われるテーマはお釈迦さまがとある国王に説いた「強国の条件」です。衝撃的でしょう?
本来、宗教イコール神仏を崇めることではなく、資本主義や共産主義のようなものとして受け取られいたのですよ。あるいは科学のようなものと言ってもいいでしょう。考えてみれば何故、科学とキリスト教は対立したのでしょう?アプローチが違うだけで、扱っている領域自体は同一だからです。本当にまったく別物だったら話題が合わなくて喧嘩もできません。
こちらの科学を切り口にした偉人の声が面白いですよ。
http://lifemeaning.blog126.fc2.com/blog-entry-168.html
このような視点から考えると、宗教に関心を持つキッカケも「一理ある」でいいと思うのです。
(お釈迦さま直接のお弟子さんの大半も大した理由で出家していませんし…)
私の寺には神棚がありますクリスマスもやります
あまり宗教ということで垣根を作る必要はないように思います。
宗教というネーミングは付いていますが、「とことん自分というものを知る」ということが宗教ではないでしょうか。
自分を知ることは、争う必要もない、救われているということに気付くことでしょう。
それを知識ではなく実践の中で学ぶことでしょう。どんな人でも実践すれば救われるものが宗教でなくてはならない。
誰かを攻撃したり傷つけたり命を奪うようなものは、宗教と言ってはいけないのでしょう。
あの世の話であったり夢物語であったりそんなことではなく、自分というものの本質を知り、今事実生活をしている、状況で救われる道であってほしいです。
質問者からのお礼
仰るとおりたまに視野狭窄になる事があります
もっと書を読み、人とふれあい自分を研鑽しようと思います
お智慧をくださり有り難う御座います