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出家して良かった宗教っていいなと思われることはありますか?

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既出の質問でしたら申し訳なく思います。
お坊様に拝聴したい

タイトルの言いたいことは自分の宗教を決めて良かったと思うか
ということになります。

私の実家では真言宗です(神道もやってます)。
私自身、信教することになんら不思議はないのですが、私は次男分家の立場で、自由にしなさいといわれております。

特に宗派、宗教を決めずに郷に入れば郷に従えで生きていました。
ただ、色々と話しを聴いたり勉強していく中で「なるほど先達の言うことにも一理あるな」と思っています

色々と悩み・障害・苦・反省を繰り返す今の自分の生き方に案内をお願いしたく存じます。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

もっと大きな宗教心を持ちましょう

何処に生まれても人間は元々無宗教。
親の宗教が何であれ、周りの宗教が何であれ、本当に真実を求めている人は宗派枠に収まらない。
ある時に本当に宗教心に目覚める。
それは宗派ではない。
宗派の隔て以前の自己。
うどんもチジミもパスタもパンもなんも素材はみな小麦。
カタチが重要なんじゃない。
ラベルが重要なんじゃない。
あなたのいう
❝いいなぁ❞ってことが大切。
どんな宗派にも「いいなぁ」はある。
それは宗派の側にあるというより、それを学ぶこちら側に生ずる感覚。
だから「あなたはその宗派でなければならない」とかいう宗派はちょっと息苦しい。
私は、曹洞宗ではありません。
たまたま曹洞宗のお寺に生まれ、曹洞宗で学びましたが、曹洞宗の道元という人は、
仏道を求める人たちに「禅宗とも言うな、曹洞宗とも言ってもならない」と説いています。
それこそが、本当の宗教心です。
誰もが救われる隔ての無い広い心。
あなたの生じる、障害、悩み、苦しみ、反省には、もともと「私が介入しなければ」苦しみにも悩みにもならなかったはずです。「わたくし意識」「私」という思いを手放すのです。
この身がこの身でありながら、わたくし意識だけを滅却すると、苦しみや悩みが無くなる。
それが坐禅であり、念仏であり、阿字観、真言、仏行なのです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

色々語りたい心をグッとこらえて…

決めてはいますが、それは自分の中に切り口を用意しているだけであって、他はしない!という性質ではありません。実際に志願して上座部仏教の修行をさせていただいた経験もあります。

専門分野を持つと、関連分野の理解と応用も捗りますね。私にとってその切り口が仏教であり、曹洞宗です。

仏教系大学のゼミのテーマは『華厳経』でした。その中で「一即一切、一切即一」を学びました。するとそれは仏教の根本思想である「縁起思想」のモデルチェンジであって、結局同じことを言ってるのだなと気付きました。そうしたら次は、なんだ、「色即是空・空即是色」も「一念三千」も みんな同じじゃない。すると…というようにポンポン繋がっていきました。

言ってみれば積分を切り口に勉強したことで、図形の面積を計算するのにタテかけるヨコでも、積分でも結果は同じ。ただ用途によって向き不向きがるだけということに気付いたわけです。(数学弱いのでトンチンカンなことを書いていたら申し訳ございません)

だから宗教宗派を決めて良かったかというよりも、決めないと始まらなかったし、決めたことでかえって1つにこだわる必要が無くなったと言った方がしっくりきます。

先達の言うことにも一理、ですか。キッカケはそれで良いと思いますよ。『阿含経』(あごんきょう)という古い仏教経典がありましてね、その中のお釈迦さまの項で最初に扱われるテーマはお釈迦さまがとある国王に説いた「強国の条件」です。衝撃的でしょう?

本来、宗教イコール神仏を崇めることではなく、資本主義や共産主義のようなものとして受け取られいたのですよ。あるいは科学のようなものと言ってもいいでしょう。考えてみれば何故、科学とキリスト教は対立したのでしょう?アプローチが違うだけで、扱っている領域自体は同一だからです。本当にまったく別物だったら話題が合わなくて喧嘩もできません。

こちらの科学を切り口にした偉人の声が面白いですよ。
http://lifemeaning.blog126.fc2.com/blog-entry-168.html

このような視点から考えると、宗教に関心を持つキッカケも「一理ある」でいいと思うのです。
(お釈迦さま直接のお弟子さんの大半も大した理由で出家していませんし…)

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

私の寺には神棚がありますクリスマスもやります

あまり宗教ということで垣根を作る必要はないように思います。
宗教というネーミングは付いていますが、「とことん自分というものを知る」ということが宗教ではないでしょうか。
自分を知ることは、争う必要もない、救われているということに気付くことでしょう。
それを知識ではなく実践の中で学ぶことでしょう。どんな人でも実践すれば救われるものが宗教でなくてはならない。
誰かを攻撃したり傷つけたり命を奪うようなものは、宗教と言ってはいけないのでしょう。
あの世の話であったり夢物語であったりそんなことではなく、自分というものの本質を知り、今事実生活をしている、状況で救われる道であってほしいです。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

仰るとおりたまに視野狭窄になる事があります
もっと書を読み、人とふれあい自分を研鑽しようと思います
お智慧をくださり有り難う御座います

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ