極楽浄土にたいする思い
私の極楽浄土にたいする思いとは、全ての苦痛から、開放されて、阿弥陀様と、愛した者の魂があれば、それでよく、他は何も要らないと思います。例えば、空腹も苦痛のひとつです。金銀財宝が極楽浄土ではなんのやくにたつのでしょうか?わたしは、生まれてから、色んな想像を絶する苦痛に、耐えてきました。無限地獄なんか、はるか生ぬるいぐらいでした、だから、本当の極楽浄土の有り難みをしっています。後、余談ですが、有り難いの対極は、当たり前とは、思っていもせん、有り難いの対極は、勿体無いだと、私は思います、当たり前とは、有り難いを守る為の行動であり、勿体無いことをしない行動だと思って思います、愛する妻と結婚できたことは、極めて有り難いです。だから妻を守ることは、極めて当たり前の事と思っていきています。対して、勿体無いとは、ある命を粗末にする事ではないでしょうか。全ての衆生の命は、尊いものです。命を尊ぶことを、当たり前としましょう。
お坊さんからの回答 3件
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勝義的には極楽浄土も娑婆世界も同じ
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
拙生は、極楽浄土も娑婆世界も、さほどに変わりはないと考えております。
その大きな違いは何かとなれば、如来(の報身あるいは応身)が在世しているかどうかであると。
残念ながら、今の如来不在のこの世界では、悟りへと向かうための条件がどうしても満たないことがございます。
そのため、釈尊入滅後には、如来在世の世界へと向かわせんがために、その一つの浄土として、極楽の素晴らしさを、あえて世俗の価値観でも言及なさられたのだと存じます。
まずは、衆生たちに行ってみたいと希求する気を起こしてもらえるように、としての方便的な意味合いもあるというところであります。
もちろん、勝義的には、娑婆世界も極楽浄土もまったく変わらない世界ではあるのですが。。
それは悟るまではそう映えないものの、現実、この娑婆世界で悟りを開くには難しいところがあるため、やはり、如来在世の浄土へと向かうことが望ましいところとなります。
もちろん、この娑婆世界にて悟りを開ける可能性は全くのゼロではないのですが、、
川口英俊 合掌
自然法爾
拝読させて頂きました。
あなたのご意見本当に有難く受け取らせて頂きました。
そうですね、有難いことの対局はもったいないこととも思います。
あなたのお言葉の中で有難いの対極に位置する言葉として「粗末にする」が私には当てはまるかなとも思います。
有難い存在やご縁を大切にできないことや心の在り様や真の価値を認められない事つまり満たされることない心や不幸せなことが「粗末にする」ことにつながりを持っている様に感じます。
粗末にしてないがしろにすることが結果人やものごとを不幸にさせていく元かと思いますね。
仏様がおつくりなさった西方極楽浄土は一切の悩みや迷いや苦しみもなく、全てがものが当たり前のように仏様に救われて心から安心して満たされた、全てが「自然法爾」の世界です。
そうですね、あなたのおっしゃる「全ての衆生の命は、尊いものです。命を尊ぶことを、当たり前としましょう。」私もその様にこれから生きていきたいと思います。
仏様を心から信じ極楽浄土に往生させて頂けます様にと、仏様にお願いさせて頂いてお念仏おとなえさせて頂きたいと思います。
有難うございました。至心合掌 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
再度拝読させて頂きました。共にお念仏させて頂きたいと思います。
南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
質問者からのお礼
ありがとう御座います。全ての衆生が、命終わったあと、極楽浄土へ召されることを、切に願っております。その為にも、命を尊ぶ事を、当たり前としましょう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 合掌、、