称名念仏は在家の仏教者でも有効にできるのでしょうか?
法然様や親鸞様は専修念仏を教化しておられますが、出家せずとも在家のままでも有意義な念仏はできるものでしょうか?
やはり、浄土教系の寺院で指導を受けるべきものでしょうか?
在家のままでも有意義な念仏が可能だとすれば、どのような点が大事になるでしょうか?
ご教示頂ければ幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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南無阿弥陀仏
歎異抄第一章
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々」
お念仏には出家・在家はもとより、なんらの資質や能力も努力も問われません。ただし「信心を要とす」です。
そしてその信心は「如来よりたまわりたる信心」ですから阿弥陀様よりいただくものです。その阿弥陀様というのは実体ではなく大無量寿経などのお経に物語として説かれるものです。
それは「実際に存在するわけではない物語から信心をもらうなんか話にならないじゃないか!」というものではありません。
そこには物語という形をとってまで私たち一人一人にどうしても伝えたかった真理・真実があるのです。それが「南無阿弥陀仏のいわれ(仏願の生起本末)」、つまり「なぜ南無阿弥陀仏か?」という願いであり、問いです。
それを聞き確かめていく歩みが真宗門徒の仏道です。聞法し、お念仏申しながらの日暮らしです。
ともに仏の願いを尋ね、日々の暮らしを通して確かめて参りましょう。この私(あなた)一人のために説かれた南無阿弥陀仏です。
問題ありません
拝読させて頂きました。
はい、全く問題ありません。
阿弥陀仏様をこころから信じて、どうか私を正しくお導きなさって下さい、天寿を全うする時には必ず仏様の極楽浄土に生まれさせて下さいと願い、ただひたすらに南無阿弥陀仏なむあみだぶつとお念仏おとなえなさって下さいね。
仏様にとってお坊さんだろうと一般の方だろうと何ら変わりはありません。
お坊さんとして仏教や浄土教を学びたいと思えばお坊さんになってもいいですし、そのままに信仰をもって生きたいならばそのまま在家でも良いのです。
阿弥陀様は心から信じてお念仏おとなえする方々を平等にお救いなさって下さいます。
どうぞ安心なさってお念仏おとなえなさって下さいね。
そして共にお念仏おとなえ致しましょう。
あなたが仏様を信じ日々心からお念仏おとなえなさり豊かな毎日をお過ごしなさり、極楽浄土に往生なさいます様にと心から仏様にお祈り申し上げます。
至心合掌 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
質問者からのお礼
ありがたいお言葉をありがとうございました。これからも励んでいきたいと思います。