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金剛経「第五章 如現実見分」のヒントをお聞かせください。

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いつもお世話になっています。「金剛経5章」の勝手な考察です。お坊さんからのヒントをお願いいたします。
 我々凡夫は、如来であるとの確証を得た(=如来は凡夫にとって価値があるということを知った)後に、如来を探し出せるような特徴を必死に見つけ出します。如来(=価値がある存在)と確証する前は如来でも何でも無いので特徴など詮索しません。探す目で見ていないので特徴はあっても特徴は認識できないので特徴はありません。特徴があるとは、気づいた後に作り出すものであり前には特徴はありません。
 誰かが発見する前から重力や浮力は存在していて誰もが目にしています。特徴などないので気づきません。発見した人が「万有引力」やら「浮力」などの名前をつけて特徴としています。
 そもそも、あらゆるものに特徴などなかったのです。人間だけに利用価値や意味があるので特徴を見つけ出します。人間以外の動物に「偽札」の特徴など知る必要はなく、特徴などありません。
 動物には「言葉」がないので、臭いとかまずいとかの概念はなく本能的な反応だと思われます。我々人間も味を「言葉」にして分けていますが、親に教えられて「にがい」という味覚と経験を記憶しているだけです。
 特徴があると断じても、諸法は無我であるので縁によって以前の特徴がいつまでもあるわけではありません。宇宙空間での「音」の特徴は、空気という縁がないので音は振動として伝わらないので音の特徴などありません。人相の特徴ですら、三十年も経てば全く変わってしまい以前の特徴はなくなっているでしょう。
 特徴がないと断じたとしても、人間が価値を認めれば特徴を必死に見つけて特徴を定義します。
 「ぶどう」は房に実が鈴なりについていて、甘酸っぱくて黒や緑色をしているという特徴によって「ぶどう」と名付けられます。この共通認識によって、市場で果物として流通しています。「ぶどう」は「ぶどう」と名付けられる前から存在していました。「ぶどう」は「ぶどう」と呼ばれなくても「ぶどう」ですから、明日から「ぶどろ」と呼ばれてもいいのではないでしょうか。
 特徴によって存在しているのではなく、存在に特徴をつけて勝手に思いつくままに適当な「名前」をつけているだけではないでしょうか。
 結局、あらゆるものは概念と名前によって個別の存在として有るだけで本来は区別差別のない一体であると認識しました。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

縁起門から唯識と空

拝読させていただきました。

唯識論に値します。
今流行りのヨガでもありますいわゆるマインドフルネスをお伝えしています。

見るものなすもの全ては唯、目の前に起こっている現象に過ぎず、事物は諸行無常であり、我は諸法無我である。
従って、すべては「無」である。般若心経でも同じように色即是空空即是色ということでもあります。

今、見えているものがすべて真実であります。しかし、それは時の経過で変化する諸行無常であることから、見える真実は「今(一瞬)」なのである。

捉え続けれる特徴はあっても、特徴は変化するので、特徴があってないのがまた真実。

やはり真実は諸行無常ということになります。

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祈るこころに佛心が宿る。 変化多き時代を生きる私たちにできること、それは...
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金剛般若波羅蜜経・如理實見分第五と根本中論・如来の考察

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

金剛般若波羅蜜経・如理實見分第五の内容を理解する上で役立ちますのが、龍樹大師の「根本中論」第22章「如来の考察」の内容となります。

両者において共通しているのは、「実体視の否定」というところとなります。

ただ、世俗諦的には、特徴というものは縁起としては成立しているのです。ですので、虚無、絶無というわけではないのであります。

では、否定されているものは何かとなれば、その成立についての実体的なもの、自性的なもので、そのようなものは見当たらないというところとなります。

般若経典類においては、いったい、何を否定して、何を肯定しているのか、その差異の見極めが非常に大切なところとなります。

是非、中論の理解も進められてみて下さいませ。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

法源先生 ありがとうございます。
 スッキリしました。我々人間の見えているものや五感で感受しているものは、人間の見ている距離や、人間の観察している時間によって一時的な違いとして見えているに過ぎないと思います。
 宇宙ステーションから地球を見れば人間の存在など見えません。顕微鏡で人間を見れば細胞として見えるだけで人間そのものを認識しているわけではなく、細胞の活動として見えているだけです。さらに分解するならば、全てが素粒子のエネルギー運動であって違い(=特徴)など存在していません。何かを一瞬見ただけで勝手に判断するのが人間です。一瞬で分かるわけがないのに分かったようにしているのが愚の骨頂と言われる所以かもしれません。
 全員が奇抜であれば、奇抜など存在しません。全員に特徴があれば、特徴など存在しません。すべてが一時的に感受しているだけであり、無常であって実体は無いのであって執着する対象ではないと思われます。身の回りで起こっている事象や感受している感覚に囚われること無く観察していきたいと思います。

川口 英俊 先生
 いつもご回答いただきありがとうございます。
 恥ずかしながら「実体視の否定」という言葉は初めて目にいたしました。
 お釈迦様の説かれていることは人知を超えているのに、人知を使って解ろうとするのは愚かであると気づきました。人知で解る(=問題自体が無くなる)のなら、普通に勉強したら解ると思ってしまう浅はかさに恥じ入るばかりです。
 人知を超えるとは、人知(=思量や分別、知識)を使わずに五感になりきって今の有り様をそのまま隔てなく観れるようになることだと感じています。
 見えているのは見えているだけであって、見えている以上でも以下でもなく思慮分別する対象としてはならない。聞こえてくるのは聞こえてくるだけであって、以上でも以下でもなく思慮分別する対象とはならない。私を持ち込まずにただ観察に任せて実践しています。
 今後も、真剣に無常・無我の実践によって心を清浄にするように努めてまいります。
 先生から紹介いただいた中論の理解に少しでも近づけるよう鋭意努力を怠らないように気おつけてまいります。

 合掌
 

「お経・経典の種類、意味、唱え方」問答一覧

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