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「苦」によって仏道を志すのでしょうか

回答数回答 1
有り難し有り難し 9

いつもお世話になっています。

日々のご回答に感謝いたします。
質問者の方々が励まされ心情に変化をもたらし心が好転していることが伺えます。仏道を志す者としても嬉しい限りです。

在家ですが、日々坐禅を行って心の清浄に努めています。
多くの質問者は、他人の質問を読むことでも勉強になっていると思います。

「苦」を観察しました。
 我々は見るものであると同時に見られるものです。我々は現象を観察するものであると同時に観察される現象そのものです。

 いつも主体と客体という目線でしか観察できていませんでしたが、己を客体として観察すると、己は他人(=現象を見ている主体)から見れば「客体」であって、見られる現象そのものです。
 現象は諸行無常であり縁によって起こっています。この世は、全てが縁によって起こっているので恒常不変の「我」など無いので無我であり管理や制御のできない世界に生きています。

 現象は常に未知であり無常であり無我であるゆえに実体のない蜃気楼か幻想のような実体のない「空・無」です。この身体や五感も現象であって、無常です。この世は、一時的な現れの現象が連続で展開されているだけでしかありません。

 己に視点を移すと、我々は未知なる一瞬一瞬の刹那を体験してるだけです。この幻想の「世界」では掴むことのできない「空・無」を一生懸命につかもうとしています。しかし、己の頭の中では「現実」として展開されていて掴めるものと思い込んでいます。できもしないのになんとか掴み取ろうともがき苦しんでいます。しかし、叶わないので「苦」となっていると思います。

 存在していない仮想の「わたし=無我」を使って、掴むことのできない世界で掴もうとする「渇愛」がありつづけます。「渇愛」を消すこともできずに「苦」のままに生かされています。
 我々は、楽で「苦」をカバーしきれなくなり、「苦」に耐えきれなくなるようです。やり場のない怒りや憤りが募り、仏道に拠り所を求めるようになっているのでしょうか。「苦」を認識することによって仏道に入っていくなら、「苦」は避けるものではなく直視しなければなりません。「苦」は消滅できると証明されたのがお釈迦さまでありその道が仏道であると日々感じています。

 お坊さんのますますの活躍をお願いいたします。

2018年11月20日 12:12

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

すべて、本質的には「苦」

あらゆる刺激の本質は、苦ではないでしょうか。
○○したい、○○せざるを得ない、というウズウズも苦です。
仏教を学びたいウズウズも苦。
ありがたい仏教書を読んでいるときに、次のページも読みたい、早くページをめくりたい、というウズウズも苦。
出家したいというウズウズも苦。

食べたいのも苦。
食べることに満足したら食べるのを止める。
生きたいのも苦。
では、生きることに完全に満足したら?
それが輪廻転生からの解脱、涅槃ではないでしょうか。
なお、生きることに完全に満足していないのに死にたいというのは、ただ死にたいという苦に動かされているだけ。
本当は、まだまだ生きたいという苦もある。
これとは違い、お釈迦様は、「我が齢は熟した」と、生きることに満足して入滅されたのです。

2018年11月20日 22:58
{{count}}
有り難し
おきもち

浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

質問者からのお礼

願誉浄史 先生

 ご回答ありがとうございます。
 先生のおっしゃるとおり、凡夫は日々ウズウズとして自ら問題を作ってしまっていることに気づきません。ウズウズが当たり前だという前提で生きています。
 ウズウズを消し去る手立ての糸口さえ見ることができません。
 ウズウズをすぐには消せませんが、徐々に消し去るのが仏教の智慧だと思われます。

 お釈迦様のように「我が齢は熟した」生きることに満足して入滅できれば、この世で全てを成し遂げた人生ですね。
 どの家庭でも、認知症となり半ば強制的に先進医療の実験台のように扱われ生かされている人がいることと思われます。自分の意志では死ぬこともできずに、自分の意志も表明できません。
 医療技術を駆使して生かしている方も苦。
 生かされて死ねない人も苦。
 ただ見ている人も苦。
 社会保険料が国の財政を圧迫しているのも苦。
 介護保険料の負担が増えている若い人も苦。
 100歳まで生きようとする苦。
 100歳まで面倒を見なければならない苦。
 年金が払えないから70歳まで働いて、100歳まで生きてくださいという苦。
 自分だけは健康で100歳まで生きていると信じている苦。
 老病死を直視しないで味わう苦。
 若い時に仏教を真剣にやっておけばよかったと後悔する苦。
 恐ろしいまでの生存欲、植物状態であっても生かしてあげるのが使命と思い込んでいます。

 現実は変わりませんが、現実の見方は変えられます。一切空不可得
 お坊さんの、回答を拝読させていただき少しでも安心立命の心でいられることに感謝しています。

合掌

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仏教をもっと学ぶ方法は?

こんにちは。 以前Googleで自分の悩みを検索したところ検索結果にこのサイトが出てきたことがあり、それ以来hasunohaを毎晩のように拝見しています。お気に入りのお坊さんをブックマークしているほどです。 生まれた時から仏教徒で、お盆やお参りなど特に考えずそのマナーに従って生きてきましたが、一方で神や仏、また心霊などの類は一切信じないたちです。 しかしながら倫理哲学の勉強は非常に好きで、現在もっとも興味があります。 きっかけは数年前心身共にとても傷つく出来事があり、以来リラクゼーションやアロマ、音楽など、私生活で自己を労る環境を整えていきました。しかしそれらは頭の中、つまり思想の面では自分を疲労から救ってはくれず、そのとき仏教が自分にとって非常に重要なものではないかと気づきました。(軽率な発言続いており誠に恐れ入ります。。) hasunohaをみているうち、信じるか信じないか、お祈りが届くか届かないか、極楽浄土に行けるか行けないか以前に、自分で自分を生きやすい方向に調整していく、大変学びの多い学問でもあることを理解しました。 長くなりましたが質問したかったことは、仏教を学ぶ上でビギナーの私におすすめできる学習方法を教えていただけませんでしょうか。 下記何でも構いませんので、回答いただけると嬉しいです。 ・おすすめの著書(専門用語が多すぎない、噛み砕いてある、原版の理解にふさわしい) ・近所のお寺に通うことも考えたが、用もないのに門を叩いて説法してもらうことなどはできるのか? ・合宿のような形式で学ぶ方法はあるか。どうすれば受けられるか。ある場合、実家は曹洞宗だが宗派を超えても学習はさせてもらえるか ・↑に似ているが、短期的に修行を受けることはできるか。どのお寺でもできるのか?できるお寺はどうやって探すのか ・その他いい方法があれば 可能ならば僧の方に直に毎日少しずつお話を受ける形式が望ましいですが、自分の周りでそう言った人は見かけないし難しいのでしょうか... よろしくお願い致します。

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初めて質問を投稿いたします。 るると申します。 私は学生時代うつ病を患い、生きていくことのつらさ苦しさと死への恐怖に悩み、救いとなる教えを求めて父方の宗派のお寺である東本願寺へ参りました。 そこで、どのような人間であってもすくい取ってくださる阿弥陀様の教えを聞き、何があっても必ず助けてくださる存在があるということに強い安心安堵感を得ることができ、その後は真宗の教えを聞く機会を定期的に作り心の支えとしてきました。 数年後、大学は無事卒業し就職すると私は非常に忙しい部署に配属され、激務と過労で再びうつ病の兆候が出てきて頭の中があらゆる雑音でいっぱいになっているような感覚に陥りました。 その時心の支えとなる教えをまた求めてお寺に行こうと決心したのですが、何故か今回はいつもとは異なる直感のような感覚で母方の宗派のお寺である永平寺に参りました。 永平寺で禅の一端を体験し、その後禅に関する本を読む中で、あるがままを冷静に見つめ自らの内の欲や煩悩を統御する教えを学び深く感動し、禅の教えをこれから生きていく中で実践したいと思いました。 前置きが大変長くなりましたが、二つの宗派の教えと出会いわたしは今どちらを信じたら良いのか迷っております。 煩悩を否定せず阿弥陀様が必ず救うとする真宗か、煩悩を統御し坐禅を通して自ら悟りを目指す禅宗か、全く異なる教えに触れどちらも捨てられないと悩んでいます。 両方を信じる道もあるのでしょうか。 拙い文章になりましたが、僧侶の皆様から何か教えをいただけたらと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

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