「苦」によって仏道を志すのでしょうか
いつもお世話になっています。
日々のご回答に感謝いたします。
質問者の方々が励まされ心情に変化をもたらし心が好転していることが伺えます。仏道を志す者としても嬉しい限りです。
在家ですが、日々坐禅を行って心の清浄に努めています。
多くの質問者は、他人の質問を読むことでも勉強になっていると思います。
「苦」を観察しました。
我々は見るものであると同時に見られるものです。我々は現象を観察するものであると同時に観察される現象そのものです。
いつも主体と客体という目線でしか観察できていませんでしたが、己を客体として観察すると、己は他人(=現象を見ている主体)から見れば「客体」であって、見られる現象そのものです。
現象は諸行無常であり縁によって起こっています。この世は、全てが縁によって起こっているので恒常不変の「我」など無いので無我であり管理や制御のできない世界に生きています。
現象は常に未知であり無常であり無我であるゆえに実体のない蜃気楼か幻想のような実体のない「空・無」です。この身体や五感も現象であって、無常です。この世は、一時的な現れの現象が連続で展開されているだけでしかありません。
己に視点を移すと、我々は未知なる一瞬一瞬の刹那を体験してるだけです。この幻想の「世界」では掴むことのできない「空・無」を一生懸命につかもうとしています。しかし、己の頭の中では「現実」として展開されていて掴めるものと思い込んでいます。できもしないのになんとか掴み取ろうともがき苦しんでいます。しかし、叶わないので「苦」となっていると思います。
存在していない仮想の「わたし=無我」を使って、掴むことのできない世界で掴もうとする「渇愛」がありつづけます。「渇愛」を消すこともできずに「苦」のままに生かされています。
我々は、楽で「苦」をカバーしきれなくなり、「苦」に耐えきれなくなるようです。やり場のない怒りや憤りが募り、仏道に拠り所を求めるようになっているのでしょうか。「苦」を認識することによって仏道に入っていくなら、「苦」は避けるものではなく直視しなければなりません。「苦」は消滅できると証明されたのがお釈迦さまでありその道が仏道であると日々感じています。
お坊さんのますますの活躍をお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
すべて、本質的には「苦」
あらゆる刺激の本質は、苦ではないでしょうか。
○○したい、○○せざるを得ない、というウズウズも苦です。
仏教を学びたいウズウズも苦。
ありがたい仏教書を読んでいるときに、次のページも読みたい、早くページをめくりたい、というウズウズも苦。
出家したいというウズウズも苦。
食べたいのも苦。
食べることに満足したら食べるのを止める。
生きたいのも苦。
では、生きることに完全に満足したら?
それが輪廻転生からの解脱、涅槃ではないでしょうか。
なお、生きることに完全に満足していないのに死にたいというのは、ただ死にたいという苦に動かされているだけ。
本当は、まだまだ生きたいという苦もある。
これとは違い、お釈迦様は、「我が齢は熟した」と、生きることに満足して入滅されたのです。
質問者からのお礼
願誉浄史 先生
ご回答ありがとうございます。
先生のおっしゃるとおり、凡夫は日々ウズウズとして自ら問題を作ってしまっていることに気づきません。ウズウズが当たり前だという前提で生きています。
ウズウズを消し去る手立ての糸口さえ見ることができません。
ウズウズをすぐには消せませんが、徐々に消し去るのが仏教の智慧だと思われます。
お釈迦様のように「我が齢は熟した」生きることに満足して入滅できれば、この世で全てを成し遂げた人生ですね。
どの家庭でも、認知症となり半ば強制的に先進医療の実験台のように扱われ生かされている人がいることと思われます。自分の意志では死ぬこともできずに、自分の意志も表明できません。
医療技術を駆使して生かしている方も苦。
生かされて死ねない人も苦。
ただ見ている人も苦。
社会保険料が国の財政を圧迫しているのも苦。
介護保険料の負担が増えている若い人も苦。
100歳まで生きようとする苦。
100歳まで面倒を見なければならない苦。
年金が払えないから70歳まで働いて、100歳まで生きてくださいという苦。
自分だけは健康で100歳まで生きていると信じている苦。
老病死を直視しないで味わう苦。
若い時に仏教を真剣にやっておけばよかったと後悔する苦。
恐ろしいまでの生存欲、植物状態であっても生かしてあげるのが使命と思い込んでいます。
現実は変わりませんが、現実の見方は変えられます。一切空不可得
お坊さんの、回答を拝読させていただき少しでも安心立命の心でいられることに感謝しています。
合掌