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10年続けてきたスポーツをやめようか迷っています

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来年度 大学3年生になる体育学生です。

小学校から続けている陸上に対しての熱が冷めてしまい、退部、休部、続行するかとても悩んでいます。助言を頂ければ幸いです。お願いいたします。

小学、中学、高校と陸上一筋で毎日毎日走って走って走りまくっていました。初めてからわずか一年で全国大会に出場し、毎年全国大会には参加させて頂いています。中学から全国の決勝にもいけ、私の人生はずっと陸上が隣にいるものだと思っていました。しかし、大学に入学してから考えは変わりました。
今までの成績で周りの先輩方はとても期待してくれていました。でも、高3の冬に交通事故に遭い、4ヶ月ほど練習ができない期間がありました。陸上選手としては、冬に練習を積むので練習が出来ないことはとても致命的でした。案の定、その年はいたって活躍もできず、流れに身を任せて過ごしていましたが、本当に本当につまらなくて、『なんだよ、期待してたのに』『使えねえな』と周りに言われてるような錯覚に陥ったり、競技場に入ると泣き出したり、気持ち悪くなったり、ストレスになったこともあります。でも、辞めることは考えてはいなかったので、頑張って克服し、2年のシーズンはへぼながらも頑張りました。そして、今年の冬。あと2年しかない学生生活を陸上に捧げることに疑問になって。。((あと2年しかないのに、もう気持ちも切れてるし、速くなれないのは分かってるし、だったらいっその事辞めようか。でも、大学大好きだし、部活のみんなも大好きだし、辞めたらみんなになんて言われるんだろう。高校の顧問もどう思うだろう。))と日々心の中で葛藤しています。
うまくまとりまらず、すみません。
お願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

10年「あなた」をやっていたのだ

私も禅の修行道場に10年居ました。
下りる時に何か勿体無い気がしましたが、観点が変わりました。
10年、この自分の活動以外の何物でもなかった、と。
ラベルは別に何でもよかったのです。
実質の方は今もその10年が終わっても、瞬時瞬時続いていますから。
坐禅会に来られるある新聞配達の女性が「私は別に新聞配達だけをやっているわけではない」と。
犬の散歩にしてもい犬の散歩だけをしているわけではありません。
色々な物事の観察、歩いているからこそできる事、出会い、学びがあります。
あなたがやってきた10年は。そのスポーツだけをやってきただけはないはずです。
出逢い、学び、努力、無限の活動をしてきたはずです。
今も、ここでそういう学びをしているはずです。これからもあなたのそのものは10年、30年、50年以上続いていく。
この身がこの身でありながら、ただ己の活動をなす。
人間は人間の思い込みのラベルを剥がせば、ただ、自己が自己をしているのみです。
そこには鏡が全世界を映すように、全身で景色、音声、香り、味、感覚、思いを感受している姿があります。そういう自由な働きに目覚めて欲しいと思います。
そうすると10年というシバラレからも自由になり、キャリアよりも目前の一事を生きる姿勢になります。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

いつか辞める時は来る

どんなスポーツ選手も、勤めも、引退という時がきます。

それがいつになるかはそれぞれの状況や本人の思いにより違うのでしょう。
私があなたに、辞めろだの、続けろだのいう立場ではないので、そうした事は言いませんが、ひとにどう思われるか、という視点は無視した方が良いです。
今までの努力というものもあるでしょう。しかしどんな決断をしても、無駄になる事はないです。それがあったから、今のあなたがいるのです。
後悔のない決断をしてください。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

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