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僧侶ではなく

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アドバイスお願いいたします。

勉強をしていく中でお大師さまに関わる、お寺に関わることに仕事として携われないだろうかと思うようになりました。僧侶ではなくともお寺に携わる仕事はどのようなものがあるのでしょうか。

家庭の事情によりこの先数年は実家住まいで今の仕事は辞められませんが50歳以降でも就ける仕事はあるでしょうか?またあるとすればどのように探したら良いのでしょうか?
どうぞよろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

僧侶として生きるのがよいのでは?

僧侶っていうのは僧的な生き方を進める人たちのことであって、僧侶になると色々大変です。
菩提心をもって利他の精神や悟りを求める気持ちがあって、戒律を重んじたり、六波羅蜜、八大人覚などを普段の生活で実践すればどこにあっても、僧侶的な生き方になります。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

信者としてお寺に貢献しては?

正直、職業としてお寺で勤めるチャンスは少ないと思います。
観光客がたくさん来るような大寺院であれば、受付や事務の職員を雇っているお寺もあると思いますが、中途採用で、そのような求人は少ないと思います。
お寺の掃除などで人を雇っているところもあるかもしれませんが。

職業としてではなく、檀信徒としてお寺に貢献するのはどうでしょうか。
ボランティアで境内の掃除をさせていただいたり、お花やお供え物を持参されたり。
あと、修行僧の袈裟代を寄付するというのも素晴らしい布施行だと思います。
袈裟代の寄付を募っている宗派はあります。
浄土宗では、修行僧が身につける袈裟に、亡くなった方(寄付した信徒が供養したい対象)の戒名がたくさん書かれています。
たくさんの方々の寄付(布施)で作られた袈裟だからです。
私も、20年以上前にいただいたその袈裟を、今でも使っています。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

ボランティアとして

そらまめさん、はじめまして。質問を拝読しました。

そらまめさんはお寺に関わることができないかと探しておられるのですね。
「お大師さま」と書き込んでおられるのでピンと来て回答いたします。

寺院によりますが、月に一度ぐらいのペースで何らかの行事をしていることがあります。
参加者の接待など寺方として人手があるとうれしいことがあります。
また、年に一度ぐらいは小さな行事が、数年に一度は大きな行事の当番が回ってくることがあります。このときにも人手があるとうれしいものです。

たいていは人手が必要なときは檀家さんなり、普段から寺に出入りしている人に声をかけて手伝ってもらうことになります。

そらまめさんも、寺院の行事などにボランティアとして参加できないか聞いてみるのもいいと思います。できれば寺院で行っている行事(写経など)に参加して、普段から寺方と面識があるようにしておくとよりスムーズだと思います。

お大師さまが出家した理由は「仏教ですべての人を救いたいから」でした。
誰かの助けになることはお大師さまの誓願にかなうことです。ボランティアとして関わる方法を模索してみてください。良い御縁があることを祈念しております。

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有り難し
おきもち

徳島県の高野山真言宗寺院で住職をしています。 本山布教師心得として自坊の月例法話の他に、地域の出張法話の依頼もあります。 出張法話で寺のある地域の特産品「梨」を紹介するので、「梨のおじゅっさん」として有名になりました。 ホームページ http://houwa-kanonji.com/

質問者からのお礼

願誉浄史 様
アドバイスありがとうございます。なかなかそのような道は難しいのですね。職としたいという気持ちがそもそも欲なのでしょうね。今の自分にできる範囲で寄付というのはしておりますが、袈裟の寄付は存じませんでした。勉強をこれからも続けてご縁を授かれるよう精進いたします。

丹下覚元 様
ありがとうございました。僧侶として、職としての僧侶を志しているのではありませんが心持ち次第で僧侶のように生きることはあり得るのかもしれません。まだまだ私は欲深いようで自分の気持ちばかりで質問いたしました。さらに学び精進いたします。

中村太釈 様
ありがとうございます。勉強を始め東京別院にお参りするようになり四年目となります。阿字月並御影供に仕事の都合がつく時には参詣しており何か私にもお手伝いが出来ないかと思いながらまだまだ新参者である上、性格もあり口に出せません。でもアドバイスを拝読し、お大師さまのお気持ちにハッといたしました。誰かの助けになれるよう勇気を持ち言葉にして模索していこうと思います。大慈大悲を胸に精進いたします。

大変申し訳ありません。字が抜けてしまいました。阿字→阿字観、でございます。

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