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迷い

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仏教では、言われたこと、されたことは今はもうなく、過去のこと。目、耳、鼻、口、肌で感じるものが今。そうすれば苦しまない。
だったら虐待は? イジメは?
全て過去の雑音?
何をやられても、されても雑音なのですか?
幼いころから、そういう環境にいると人格形成されます。普段の生活の中で困っている事が、たくさんあります。
過去が雑音なら、今、この私というかたまりは幻です。

こんな質問をして、ごめんなさい。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「今・ここ」教の弊害

ドキンちゃんさん、その疑問・感覚は大切なものです。もっとぶつけてくださっていいのですよ。ごまかして無理に納得しようとしなくてもいいのですよ。

救いのあり方として説かれる「今・ここ」は一定の評価を得て定型句化しているような感じもありますが、本来の意味が伝わる前に言葉がひとり歩きしてしまっているようなきらいもあります。

過去はなかったことにはなりません。その人の今を形成してきた過去はその人の大事な歴史であり軽視されるべきものではありません。雑音でも幻でもありません。

人が人である以上、過去・未来から分断された「今・ここ」はありません。「今・ここ」は過去未・来をも包摂しているものです。

しかしその包摂された過去・未来は「今・ここ」には実体としてはない。だからそこに執着して、そこを中心にして苦しみを解決しようとしても実体がないから取り扱えない。そういう意味合いとしての表現で「雑音」と言う人もいれば「幻」という人もいるかもしれません。

人は言葉の世界で生きていますから、言葉として形にされると「幻」なら「幻」という実体があるかのように錯覚しますが、そうではなく「その言葉を表現に用いて指し示そうとした何か」があるはずです。
そこをお伝えしたいとの各僧侶方の苦心の表現でしょうが、行き違いや感覚のズレからその人の過去や歴史を軽視するような印象を与えてしまうこともあります。そのズレはお互いに真摯に疑問をぶつけあい、思いや言葉の使用方法をすり合わせないと埋まるものではありません。

だからそのままぶつけてください。

過去は過去として確かにありました。今もそこからの影響を受けています。しかしそれはやはり「今・ここ」の問題に集約化されます。
でもわたし個人の感覚としては「今・ここ」に集約していく道は瞑想や止観や卓越した感覚によらなければならないような高度な教えだと感じます。(私自身も表現の一つとして今・こことは言いますが)

過去を引っ提げ、未来を憂いてオロオロして迷うような私たちでも救われる教えが仏教にはあります。仏教の懐は深いのです。

これからもどうぞよろしくお願いします。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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智慧と慈悲

逆っす、逆、逆。
専門用語で言うと、「三時業」(さんじごう)という言葉がありましてね、行いは無くなるわけではないんです。どんな行動にも①すぐ出る影響、②ちょっと後になって出る影響、③ずっとずっと後になって出てくる影響、の3つの影響があります。その3つが三時業。
そんな風に行いというものはずっとずっと出しゃばってきちゃうから、虐待しちゃダメ。イジメちゃダメ。
道元禅師はこの三時業をわきまえず、刹那主義的に「今さえ良ければいいんだよ!」という人とは一緒に修行するな!長いこと地獄に堕ちているような人間になるぞ…とまで言っています。

んで、私はよくこう書いています。
「自分で考えているようで、案外に自分が考えているわけじゃない。」
自分は幻じゃありません。過去と現在の集合体です。因縁生起、仮和合、非有非無、色即是空、無我、みんなそういう意味です。みんなが寄り合って私を形作っている。

「そういう環境にいると人格形成されます。」そう、その通りです。だから健康に悪い食べ物を避け、健康に良い物を選んで食べるのと同じように居場所も選ばないといけません。

だけど、過去を変えることは出来ません。未来を予約することも出来ません。未来での救いを祈るのだって、祈ること自体は今現在の行いです。人間に唯一出来ることは今、ここをどう生きるか…その積み重ね以外に出来ることは無いんです。

そうした時に、「過去を思い出す」という行いは、間違いなく今やっていることです。
確かに過去の影響の積み重ねです。私は人格と言いたくありません、心の癖です。しかしその癖を今もう一度繰り返しているのは、やはり今の心なんですよね。
そうやって過去を思い出すとセカンドレイプならぬセカンド虐待を自分自身にしてしまうわけです。そしてさらに「だから私はこういう人格なんだ」と認定することで、虐待を受けたことによる業をさらにもう一回分、積み重ねてしまうのです。それを止めていただきたい。

その上で今、他の善いご縁を摂取しましょう。その蓄積によってやがて心に溜まったジャンクな毒気が抜け、良質な栄養分が心を作ってくれるでしょう。
そう意識してもう一度ご覧ください。違って見えてくるはずです。
https://hasunoha.jp/questions/30407
https://hasunoha.jp/questions/30984

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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記憶データだけ。

まさにそのとおり!
「私」という概念は幻なのです。
過去の記憶データは意識が受ける刺激としてありますが、それが自分の過去でも、3分前に見たテレビドラマの内容でも、意識にとってはたいして変わらない刺激です。
「私の戒名だから」と記憶だけを深刻にとらえず、さっき見たホラー映画の記憶だと思えばよいのです。
小さな子供は、ホラー映画を見た後にトイレに行くのが怖くなります。
仏教者は、トイレに行くときに恐怖の記憶が意識に現れても「これは映画の記憶だ」「これは子供の頃の記憶だ」「いずれにしても記憶データにすぎない」と思えばよいのです。
過去は過ぎ去りもう無いのです。

何かが脳裏によぎっても、「これは記憶データにすぎない。」と思うようにしてはどうでしょうか。
記憶データは私をぶん殴れない。
記憶データごときは、たいしたことない、と。

そして、記憶データから、欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩を刺激されるのを防ぎましょう。
また、欲・怒り・怠け・プライドの波に心がザブンとのまれたときは、たとえば、南無阿弥陀仏の念仏で、煩悩の波に侵されない白い道の上に戻る、などのイメージをしましょう。
記憶→恐怖や怒り→「記憶データだ」「南無阿弥陀仏」→恐怖や怒りから脱した普通の心→→また記憶→
の繰り返しの中で生きていけばよいのです。
もう、迷うことを怖がらない。
迷っても、南無阿弥陀仏の念仏で、白い道(往生極楽への道)にすぐに戻れる。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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すごく大変な思いなのですねぇ

 御質問有難うございます。皆様の意見を参考にさせて頂きましたが、イジメや虐待等の思いで苦しんでおられる様に感じます。その様な思いを持ったままでは、本当に苦しみを抱えたままになりますが、少しでも和らぐ生き方が出来るべきではと思います。私の精進不足で失礼しました。   合掌

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有り難し
おきもち

山寺の住職です。他の仕事と兼務してます。
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質問者からのお礼

吉武 文法さん
お返事、有難うございます。
正直なところ、分かったような分からないような感覚です。
たしかにドラえもんのタイムマシンがあるわけではないので、過去に戻って問題解決はできません。
今の私には、どういう心持ちで、どのように行動をして行ったら良いかも迷い悩みます。
十人十色、迷い悩みが違う中で仏教を応用する事が難しく感じます。
近いはずの仏教が、果てしなく遠く感じる時があります。
これからも教えてください。
よろしくお願いします。

願誉浄史さん
お返事、有難うございます。
記憶トレーニングですね。
トレーニングを続けていれば、いつか何ともなくなるのでしょうか? 生きている年数を重ねれば、悩んでいた事実が、どうでもよく感じる事はあります。でも生きている年数が多くなるほど迷いも増える気がします。
正直なところ、南無阿弥陀のお念仏で何もかも救われる、と思えない私がいます。
だって、お念仏で空腹さえ満たされませんから。
これが私です。こんな事しか考えられない人間なんです。

大慈さん
お返事、有難うございます。
また、リンクを貼ってくださって有難うございます。
ま。さんやロバ美さんから、あたたかい言葉をいただいていましたね。
ま。さんやロバ美さんは今、読んでも泥の中できれいに咲く蓮の花のようだと感じます。
それに比べ私は、一見、蓮の花に見えるけど実は別の花の気がします。毒を持つ花。そんな気がします。虐待やイジメのせいにして、実は逃げ込んでいるのかもしれません。言い訳して、私は悪くない! 仕方がないんだ!そう思う事で救われているのかもしれません。一時的で本当の意味で救われていないのに。
きれいな蓮の花になりたいです。

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良い人・優しい人が損する理由

YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。

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