雨の日の憂鬱
雨の日や曇りがちの日、日光が当たらない時とても憂鬱になります。
心の中がずっとモヤモヤしてしまうのです。
やらなくてはいけないことが毎日あるのにやる気が出なくなります。
ひどい時はいつまでもこの憂鬱を繰り返して生きていかなくてはならないと思うと発狂してしまうこともあります。
どうして自分が選んだわけでもないのに生きていかなくてはいけないのか。
私はいつでも晴れ晴れと生きていたいのに。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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花は愛惜に散り、草は棄嫌に生うるのみなり
花は愛惜(あいじゃく)に散り、草は棄嫌(きけん)に生うるのみなり
難しい言葉を書いてすみません。道元禅師が『正法眼蔵 現成公案』に取り上げている有名な言葉です。
我々は得てして花が散っていくことを惜しみ、雑草が生えてくることを嫌います。しかし、好んだり嫌ったりするのはわれわれ人間の都合であり、勝手からくるものです。花は自らの生命活動として開花し散っていきます。草は自らの生命活動として、種が芽を出し伸びていきます。我々人間の好き嫌いにかかわらず、花は花として、草は草としての働きを示し居ります。
私達が好むと好まざるにかかわらず、自然の法則の中で晴れの日も有れば、曇りの日も有れば、雨の日も雪の日も有ります。農業する方にとって、農業用水をもたらす雨天の日も必要ですが、作物を成長させる晴天の日も必要です。でも、自然も地球も宇宙も我々の都合に合わせて動いてくれるわけではありません。自然の中で宇宙の中で、我々は生かして頂いているのだと受け留めるしかありません。
誰しもが感情を持って生きていますから、気分が上下することはあります。それは仕方がないことです。誰もが、運動会や遠足の日には雨天を嫌ってきた経験があると思います。でも、同じ日に雨天を願っている農家も居たはずです。大学入試センター試験当日、受験生は晴天を願ってましたが、降雪を願っていたスキー場関係者も多かったと思います。
人間ですから、誰もが多少の好き嫌いはあります。でも、もっと大らかな、広い心を持ちたいものです。詩人相田みつをは我々人間の身勝手さを「おだてられれば いい気になる 悪口いわれれば はらたつ わたし」と詩に表現して戒めてます。そして、下記のような生き方を提言してます。
「雨の日には雨を愛し 晴れの日には晴れを愛す」
こんばんは。
今日の神奈川の天気はどうでしたか。
北陸の冬はグレーな曇り空。
出張で太平洋側に行くとあまりの青空に戻るのが悲しくなります。
雨が続くと憂鬱でした。
身体はエネルギーに溢れているのに活動できない。
そのもどかしさがありました20代。
今は晴れの日が憂鬱です。
休日は衰えゆく身体をゆっくり休ませたい。
だけど、外はこんな青空。
何かしないことがもったいないと思えてしまう43歳。
時間とともに見えかたが変わってきます。
雨が憂鬱というのは、若い健康な証拠。
自分の思い通りにならないことの方が多い世の中です。
思い通りが当たり前という世界に執着するとしんどいです。
思い通りにいかないことが当たり前。だけどうまく行った時、
それはラッキー、ありがたし。その方が健康的に過ごせます。
鏡がなければ自分の姿すら思い通りに見ることのできない身。
その上でどんな世界を自分の上に広げていくか。
思い込みだけの世界に自分自身を閉じ込めておくのは勿体無いです。