hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

お坊さんに向かって合掌するのは何故ですか

回答数回答 5
有り難し有り難し 101

お寺詣りのお焼香の前などに、お坊さんに向かって手を合わせて合掌しておられる方がおられます。正しい作法なのですか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

合掌は敬礼(きょうらい)のこころ

仏教の原点はお釈迦様です。
多くの人はお釈迦様は❝仏教を開いた人❞だと思っておられますが、厳密には違います。
何故違うかといえば、お釈迦様は元々宗教とか仏教というより、人類で初めて我を絶して、悟りを得られた。仏陀になった。そして万人が幸せ、穏やかになれる教えを説かれました。
その仏陀の教えを❝❞仏の教え=仏教❞と後世の人が名づけただけのことです。
「誰であってもこの教えの通りに自分をおさめていけば必ず幸せになれる」
その集団の中で生まれた作法が合掌です。
相手を敬い、自がを無くする行でもあります。
「あなたも悟りを得られます」
「あなたはかけがえのない尊い存在です」
「あなたの中にある覚者になれる尊い人間性を敬います」
「互いに穏やかなるこころになりましょう」
「互いにより良くなりましょう」
「互いにより良い人生を歩みましょう」
「互いに菩提心を起こしあいましょう」
「互いに菩提を円かにしましょう」
「互いに円寂な心を完成させましょう」
「互いによき友(勝友)として敬い合いましょう」



無限に意味を持たせることはできると思いますが、原点はお釈迦様が悟りを得て苦しみや悩みから自由になれる境涯を得られたのですから、私たちもその心を敬い、尊重します、という意味合いです。
あなたも覚者、仏陀になれます。
誰もが悩みや苦しみから救われる力を持っています。
よって私もあなたに合掌いたします。
ご質問をありがとうございました。

{{count}}
有り難し
おきもち

合掌(−人−)

namunamuさま、なごみ庵の浦上哲也と申します。

これは宗派によって異なると思いますが、私の宗派である浄土真宗では、お坊さんも一般の方も立場の上下はありません。
だから自分に向かって合掌されると「私じゃなくて仏さまに合掌してね」と思います。

ちなみにインドでは、僧侶も一般の方も合掌して「ナマステ〜」と挨拶します。
ナマス=信じます
テ〜=あなた
という意味で、両手を相手の前に出し隠し事がないことを示して、「あなたを信じていますよ」と表現をしているそうです。

このナマスが漢訳されると「南無」となり、「南無・阿弥陀仏」は「阿弥陀仏を信じます」、「南無・妙法蓮華経」は「妙なる法である蓮華経を信じます」となります。

{{count}}
有り難し
おきもち

浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...
このお坊さんを応援する

自らの聖なるものへの合掌

namunam様

 初めまして。ご質問拝見いたしました。
 合掌の起源はインドとも言われますが、明確ではありません。
 チベットの合掌をしながらのマントラ(真言)に「オーム マニパドメ フーム」がありますが、語源はサンスクリット語で、その原意は「(あなたの)蓮の中の宝珠に敬礼(キョウライ)いたします」という意味です。

 蓮の蕾を連想させる「合掌」の中に、お互いの聖なるものを認め、それに対して敬った礼を捧げるというのがご挨拶となっております。

 ですから、僧侶に対して合掌をするのは正しい作法であり、お互いをより聖なるものとしていく作法でもあると言えるのではないでしょうか。

 いわゆる「聖地」も、そこが静謐な場所であるというだけではなく、「聖なる自分を捧げる」ことによって――すなわち、聖なるもの(場所)として、そこに足を運ばせていただくという行為そのものが、その場をより聖なる場としていくのではないかと思えるのです。

 合掌
 河野秀海拝

{{count}}
有り難し
おきもち

・浄土宗僧侶(元浄土宗寺院副住職:実家大阪市浄土宗天龍院千代田別院普請中)...
このお坊さんを応援する

一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)

浄土真宗は阿弥陀様一仏ですから、そういう意味では作法によって決まっているのではないと思います。

僧侶に対する尊崇の念から、手を合わせて折られるのではないかと推察いたします。

ただ、作法ということを離れて考えた場合、日本の仏教では「一切衆生悉有仏性」ということをいいますので、お坊さんにも仏性があり、その仏性に手を合わせるのだとも考えられます。

お坊さんだから、というよりも、その方に備わっている(お坊さんであるなしにかかわらず)仏性は非常に尊いものであると思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

真宗山元派上西山正善寺住職
このお坊さんを応援する

合掌は、如来の悟りの内実や働きを顕す手印の一つ。

namunamu様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「合掌」・・『おててのしわとしわをあわせて、しあわせ、なむ~』というCMのフレーズがございましたが、この「合わせる」ということが実は大きな意味を持っていると考えることができます。

古来よりインドではバラモン・ヒンドゥー教の考え方が強くあり、その一つに、右手が神聖・清浄を表す手として、左手が世俗・不浄・煩悩を表す手として扱われている中で、この「聖俗を合わせる」という「合掌」の意味合いにおいて、バラモン・ヒンドゥー教における梵我一如・不二一元論の考え方が、仏教へも影響を与え、合掌も仏教において取り入れられたのではないかと考えられます。

「煩悩即菩提」や「生死即涅槃」もその一端を示すものと言えるのではないかとは存じております。(※但し、「煩悩即菩提」・「生死即涅槃」の考え方につきましては、拙生はやや一般的な見解・通説とは異なる見解を持ってございます。)

さて、合掌には、十二の形態〔堅実心合掌・虚心合掌・未敷蓮華合掌・初割蓮合掌・顕露合掌・持水合掌・金剛合掌 (帰命合掌) ・反叉合掌・反背互相著合掌・横柱指合掌・覆手向下合掌・覆手合掌〕が代表的にございます。

この中で、私たちが普段行っている合掌は、「堅実心合掌」となります。

実は、密教においては、この右手と左手を組み合わせて、如来の悟りの内実や働きを顕すことを手印(しゅいん)と申しますが、合掌もその一つであって、多様な形態がございます。

私たちが合掌をするということの一つは、既に他の皆様のご回答にもございますように、仏・法・僧の三宝に敬礼(きょうらい)するということ、更には悟り・涅槃を目指して精進努力致しますということの表れと言えるのではないかと存じております。堅実心合掌も、悟りへと目指すための堅実な菩提心の表れと考えることができます。

また、僧侶に対して合掌するというのも、仏法を護り、実践している敬礼すべき対象として、または、迷い苦しみある衆生を引き導いて頂ける有り難い存在としての尊敬からなさられるものとして捉えることができるのではないかと存じております。

一切衆生がどうか涅槃へと至れますようにと拙生も「合掌」申し上げます。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

「お坊さん・僧侶全般」問答一覧

前住について

こんにちは 「問答」に同様な内容があり、相談していいか悩みました。 たまたま恋愛した方がお寺の長男で2年前に帰省し彼が住職となり私が坊守となりました。私は在家で両親は生前は全くお寺との付き合いをしていなかったので私もお寺の知識はありませんでした。 彼の両親は最初は私との結婚に否定的でしたが、息子が後継ぎとなることで止む無く許してくれたようです。(最初は彼は後継ぎを拒んでいました。) 結婚前に坊守の仕事を全く教えてもらわなかったので、仕事内容を覚えるのに必死な毎日でしたが、前住・前坊守の私への当りがきつく毎日辛いです。 一番辛いのは私の亡くなった両親のことを悪く言われることです。両親が亡くなったとき、嫁ぎ先の宗派(浄土真宗)とは違うお寺(浄土宗)でお葬式・法事をしましたがその事についてひどく非難されます。細かいことを申し上げればきりがないのですが 「だからお前の親はろくな死に方をしなかったんじゃ」と言われ とても悲しかったです。そのことを夫に伝えましたが、そんなこと 聞き流しておけばいいと相手にされませんでした。(もともと、夫と義父は仲が悪いです) 他にも私の態度や色々なことについて罵声を浴びせられ我慢しますが、その度に「ろくな死に方をしなかった」の言葉が思い出され涙が止まりません。 この先も罵声は無くならないと思いますが、その際、私の心をどのように整理していけばよろしいでしょうか。

有り難し有り難し 12
回答数回答 2

導師様の態度について

いくつもの質問にお答えしていただきありがとうございます。また、あけましておめでとうございます。今年もまた質問でご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願い致します。 さて、今回は今までの質問とは違います。先日父方の祖母が亡くなってしまい、家族葬ではありますが出席させて頂きました。 葬式自体は業者の方々が丁寧にしてくださったので、良い別れができたのではないかと思います。 しかし、1つ心残りがあります。それは、お経を唱えてくださった導師様の態度です。通夜、告別式ともに同じ方が来てくださったのですが、どちらの時も読経中に草履で遊んだりマスクの中を掻いたり…また若干眠たそうに読経していました。 葬式のランクは低い方で設定しましたし、家族葬で出席した人数は少ないので、気の抜けるのはあるかもしれません。しかし、そのお経は意味のあるものだったのか、祖母はちゃんと仏様?になることが出来たのか(祖母が浄土真宗だったので)気になります。 父や叔母さんなどは特に何も言わなかったのですが、今回の導師様の読経中の態度は問題なかったのか、また問題あるとすればどうすれば祖母は大丈夫なのかお答えください。 長くなりましたが、どうかお願いします。

有り難し有り難し 27
回答数回答 2

お寺=〇ちゃんねる?

 いつもお世話になっております。最近、思うことがあります。 失礼を承知で単刀直入に申し上げますと、 「お寺の客層(とくに常連)、やべえ」 まるで、「〇ちゃんねる」のようです。まともな人もいますが、 やばい人の方が多いです。  自分より弱そうな信者を探して友だちになる振りをして近づき、 支配下に置いたり利用したり、いじめの標的にするソシオパス サイコパス野郎。  他宗派をバチボコに叩き散らかし、「俺たちこそ特別、俺たち こそルールだ」と言わんばかりの薄っぺらな、説法というのも 噴飯な講釈を垂らす僧侶。  神秘主義に傾倒して、(本来、現実ととことん向き合い、 しんどい事が起きても、物事が成立する条件、環境を 炙り出して現実的に解決していくと説いているはずの)仏教を 捻じ曲げ、拝んでさえいればいいと思い込んで、現実的な 行動を起こそうとしない怠け者。  たたりや呪いのせいにして、努力しようとしない奴。  これでは、ますます仏教が誤解されるばかりです。新興宗教 と大して変わらないじゃん。  他の信者(時にお坊さん)に対してマウンティング、 時代遅れな神秘主義の信奉…  精進努力を誓うはずの道場で正反対の行動に勤しみ、 人格が破綻、結果、現場に蔓延しているのは、妄信、魔境、無明…  ちゃんとしたお寺さんもあるのでしょうが、私が行ったお寺の 数々は、冷静に振り返ってみると、全てこんな感じです。親鸞 さんの気持ちが、痛いほどわかります。  たまにちゃんとした人もいるけれど、基本多いのは、人格が ぶっ壊れたやべー奴。「〇ちゃんねる」かよ。先日など、 「生活保護費が下がるそうね。いいじゃない。みんなの税金で 食べてるんだから、働けるなら働いてもらわないと」 などと平然と抜かした奴がいて、さっきまで相槌を打っていた 信者さんたちが、静まり返るという事態も発生しました。 (ちなみに、障害年金がもらえず、生保を受給して就労準備を している人もいる。こんな発言をする奴が仏教徒だなんて)  最近は、山門や鳥居を潜るのが恥ずかしいくらいです。こんな 奴らと同類かと。  先生方のご高見を拝聴したく存じます。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 17
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ