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お坊さんに向かって合掌するのは何故ですか

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お寺詣りのお焼香の前などに、お坊さんに向かって手を合わせて合掌しておられる方がおられます。正しい作法なのですか?


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

合掌は敬礼(きょうらい)のこころ

仏教の原点はお釈迦様です。
多くの人はお釈迦様は❝仏教を開いた人❞だと思っておられますが、厳密には違います。
何故違うかといえば、お釈迦様は元々宗教とか仏教というより、人類で初めて我を絶して、悟りを得られた。仏陀になった。そして万人が幸せ、穏やかになれる教えを説かれました。
その仏陀の教えを❝❞仏の教え=仏教❞と後世の人が名づけただけのことです。
「誰であってもこの教えの通りに自分をおさめていけば必ず幸せになれる」
その集団の中で生まれた作法が合掌です。
相手を敬い、自がを無くする行でもあります。
「あなたも悟りを得られます」
「あなたはかけがえのない尊い存在です」
「あなたの中にある覚者になれる尊い人間性を敬います」
「互いに穏やかなるこころになりましょう」
「互いにより良くなりましょう」
「互いにより良い人生を歩みましょう」
「互いに菩提心を起こしあいましょう」
「互いに菩提を円かにしましょう」
「互いに円寂な心を完成させましょう」
「互いによき友(勝友)として敬い合いましょう」



無限に意味を持たせることはできると思いますが、原点はお釈迦様が悟りを得て苦しみや悩みから自由になれる境涯を得られたのですから、私たちもその心を敬い、尊重します、という意味合いです。
あなたも覚者、仏陀になれます。
誰もが悩みや苦しみから救われる力を持っています。
よって私もあなたに合掌いたします。
ご質問をありがとうございました。

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合掌(−人−)

namunamuさま、なごみ庵の浦上哲也と申します。

これは宗派によって異なると思いますが、私の宗派である浄土真宗では、お坊さんも一般の方も立場の上下はありません。
だから自分に向かって合掌されると「私じゃなくて仏さまに合掌してね」と思います。

ちなみにインドでは、僧侶も一般の方も合掌して「ナマステ〜」と挨拶します。
ナマス=信じます
テ〜=あなた
という意味で、両手を相手の前に出し隠し事がないことを示して、「あなたを信じていますよ」と表現をしているそうです。

このナマスが漢訳されると「南無」となり、「南無・阿弥陀仏」は「阿弥陀仏を信じます」、「南無・妙法蓮華経」は「妙なる法である蓮華経を信じます」となります。

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浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...
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自らの聖なるものへの合掌

namunam様

 初めまして。ご質問拝見いたしました。
 合掌の起源はインドとも言われますが、明確ではありません。
 チベットの合掌をしながらのマントラ(真言)に「オーム マニパドメ フーム」がありますが、語源はサンスクリット語で、その原意は「(あなたの)蓮の中の宝珠に敬礼(キョウライ)いたします」という意味です。

 蓮の蕾を連想させる「合掌」の中に、お互いの聖なるものを認め、それに対して敬った礼を捧げるというのがご挨拶となっております。

 ですから、僧侶に対して合掌をするのは正しい作法であり、お互いをより聖なるものとしていく作法でもあると言えるのではないでしょうか。

 いわゆる「聖地」も、そこが静謐な場所であるというだけではなく、「聖なる自分を捧げる」ことによって――すなわち、聖なるもの(場所)として、そこに足を運ばせていただくという行為そのものが、その場をより聖なる場としていくのではないかと思えるのです。

 合掌
 河野秀海拝

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・浄土宗僧侶(元浄土宗寺院副住職:実家大阪市浄土宗天龍院千代田別院普請中)...
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一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)

浄土真宗は阿弥陀様一仏ですから、そういう意味では作法によって決まっているのではないと思います。

僧侶に対する尊崇の念から、手を合わせて折られるのではないかと推察いたします。

ただ、作法ということを離れて考えた場合、日本の仏教では「一切衆生悉有仏性」ということをいいますので、お坊さんにも仏性があり、その仏性に手を合わせるのだとも考えられます。

お坊さんだから、というよりも、その方に備わっている(お坊さんであるなしにかかわらず)仏性は非常に尊いものであると思います。

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真宗山元派上西山正善寺住職
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合掌は、如来の悟りの内実や働きを顕す手印の一つ。

namunamu様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「合掌」・・『おててのしわとしわをあわせて、しあわせ、なむ~』というCMのフレーズがございましたが、この「合わせる」ということが実は大きな意味を持っていると考えることができます。

古来よりインドではバラモン・ヒンドゥー教の考え方が強くあり、その一つに、右手が神聖・清浄を表す手として、左手が世俗・不浄・煩悩を表す手として扱われている中で、この「聖俗を合わせる」という「合掌」の意味合いにおいて、バラモン・ヒンドゥー教における梵我一如・不二一元論の考え方が、仏教へも影響を与え、合掌も仏教において取り入れられたのではないかと考えられます。

「煩悩即菩提」や「生死即涅槃」もその一端を示すものと言えるのではないかとは存じております。(※但し、「煩悩即菩提」・「生死即涅槃」の考え方につきましては、拙生はやや一般的な見解・通説とは異なる見解を持ってございます。)

さて、合掌には、十二の形態〔堅実心合掌・虚心合掌・未敷蓮華合掌・初割蓮合掌・顕露合掌・持水合掌・金剛合掌 (帰命合掌) ・反叉合掌・反背互相著合掌・横柱指合掌・覆手向下合掌・覆手合掌〕が代表的にございます。

この中で、私たちが普段行っている合掌は、「堅実心合掌」となります。

実は、密教においては、この右手と左手を組み合わせて、如来の悟りの内実や働きを顕すことを手印(しゅいん)と申しますが、合掌もその一つであって、多様な形態がございます。

私たちが合掌をするということの一つは、既に他の皆様のご回答にもございますように、仏・法・僧の三宝に敬礼(きょうらい)するということ、更には悟り・涅槃を目指して精進努力致しますということの表れと言えるのではないかと存じております。堅実心合掌も、悟りへと目指すための堅実な菩提心の表れと考えることができます。

また、僧侶に対して合掌するというのも、仏法を護り、実践している敬礼すべき対象として、または、迷い苦しみある衆生を引き導いて頂ける有り難い存在としての尊敬からなさられるものとして捉えることができるのではないかと存じております。

一切衆生がどうか涅槃へと至れますようにと拙生も「合掌」申し上げます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
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