アスリート仏教からナマクラ流ズボラ派
以前は念仏を度々行っていたのですが、次第にめんどうになりすっかり幽霊念仏員と化してしまいました。
ところが久々に思い出して行ってみると読みながら自分の抑揚や音読速度を感じて、「オレ、別に焦ってないと思ってたけど、何か急いでる感じするし焦ってるんだろうな」とか「何か妙に抑揚強くてアピってなくね?もしかして飢えてるの?」
などと、どこか俯瞰した目線でまだ意識に登っていない無意識下の悩みと言いますか、或いは自分の中の別の自分の愚痴を聞くと言いますか・・・くすぶりだした欲求不満の様なものをある程度察してあげられる効果がある事に気が付いて驚いています。
仏教と言いますと、何かドグマチックな信仰や仏教哲学から入らなければならないという気がしてしまうのですが(勿論仏教には素晴らしい教えが沢山有る事は承知しています。本棚には半分くらいに栞が挟まった仏教の本が沢山有ります!)、なにせズボラなもので・・・単に健康に良いからとか、メンタルケアをモチベーションとして関わっていくのはイケない事なのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
良いと思います
実践から入るのも良いと思います。
ただし、知識は助けになります。
念仏についても、他力浄土門(阿弥陀様の力で極楽に往生させてもらう道)の念仏と、自力聖道門(悟りを目指して修行する道)の念仏とでは、考え方に違いがあります。
どの宗派の考え方をホームグラウンドにするにせよ、間違った方向にずれてしまわないためには、最低限の知識を学ぶことも重要です。
念仏も瞑想の一種として実践することは可能です。
念仏を通して自分の煩悩に気づかされたり、苦・無常・無我に触れたりできる、プチ悟り体験もあるかもしれません。
しかし、他力浄土門の念仏に関して言うならば、悟った人も悟っていない人も、善人も悪人も、阿弥陀仏は救ってくださるのです。
ですから、あなたのように念仏しながら素晴らしい気付きがあるのは良いことですが、
同時に、そんな立派な念仏(プチ悟りを伴う念仏)ができなくても阿弥陀仏は往生させてくださる、
ということも忘れないでいただきたいです。
質問者からのお礼
願誉浄史様ありがとうございました。
どんな事もそうなのかも知れないのでありますが、一つの事柄と洗練されるまで付き合うと良かったなと思える瞬間が訪れるものであります。
念仏もその一つではないかと思います。
しかしその前提に立つならば、何かしらの洗練されたものに辿り着けない人は成仏出来ないという結論が導き出されざるを得なくなる、と一見すると思えるけれどそうではなくて誰もが各々の精神を獲得せしめ付き合い続けているというそれ自体が洗練であるから、後付けの条件いかんによって成仏の可否が揺らぐものでは無い。
幾らか私なりの解釈が折り混ざってしまいましたが、そのように解釈しております。
その上で念仏にも固有の特性は有ると思うので、その特性について考察したり、勉強したりするのは楽しいものだと考えています・・・。
私自身はスポーツや芸事でも自分の楽しみを胸に秘めて追求するというか、余り人様に口出しするタイプでは無いのでどちらかと言えば自力に近い感じですが、かといって自分自身の体は自分の所有物では無くて自然から借り受けたものだから大切にしなければならないと考えています。この意味では私という精神の我が儘にさんざん身体を付き合わせて助けて貰っている事も、又落ち込んだ時に妙に体の動きが絶好調で励まされたりもしました。そういう事を考えると他力の側面も併存していると思えます。
でも最近はこれらの分別は何だか野暮に思えて、すっかりなまくら流ズボラ派に落ち着きました。レンジでチン、お湯を掛けて3分のラーメンでもやっぱり美味しいです(笑)