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自分を知りたいという執着

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有り難し有り難し 23

これまでの人生で、自分というものを無自覚に蔑ろにしてきたのではないかと思っており、今更ながら自分は何者で、何が好きで何が得意なのか、といったことをあらためて見つめなおす必要があると考えています。

というのも、特に仕事において、他人に自分の努力を認めてもらいたい、という強い欲求が自分のなかにあり、自分への評価を他人に委ねてしまっていることに気づいたからです。

自分の軸とも言うべきものがもっとしっかりしていれば、自分への評価を他人に委ねることもなく、そのことによって生じる煩悩も小さくなるのではないか、と思っています。

しかし一方で、仏教の教えに「無常」「縁起」「無我」というものがあり、「あらゆるものは常に移り変わっていき」、また「あらゆるものは関係性のなかで成り立っており」、それゆえに「永遠不変な自分というものも存在しない」と理解しています。ゆえに、自分という、常に移り変わっていくものに執着しすぎると、それは煩悩に変わり、人生が苦しくなってくる、というのも実感としてあります。

自分のことをもっとよく知りたい、必要以上に他人に依存しすぎない自分になりたい、という執着は、仏教の教えに反するものではないでしょうか。もしそうした思いが煩悩になるとしたら、そうならないための知恵をいただけると助かります。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

出遇う さまざまな人、事柄に、柔軟であることかな。

煩悩というものは、臨終の最期までなくなることはないと、親鸞さまもおっしゃっています。
うまく付き合っていくことが大事ですね。自分の欲と。

自分が何者かということですが、ある程度、性格というか性分は変わりませんよね。ただ、移り変わる環境の中で出遇う、さまざまな事柄や人によって、自分というのは刺激を受け、知り学び 続けるものですから。人が変わるというまではなくても、自分というものも、常に変化しているのでしょうね。また、本当の心の奥底は、自分でも分からないのかもしれません。阿弥陀さまにしか見えていないのかもしれませんよ。だから、手を合わせながら、新たな自分に出遇うことも、また嬉しい気づきです。

誰かに認められたい、自分評価、自己価値感の部分は、何で実感するかですよね。
仕事であれば、やはり、立場が変わる、役職がつく、給料に反映される、凄いと尊敬される、、でしょうか。あなたの求めている評価とは何でしょうかね。自分への評価、自己採点と 他者からの評価はまた違いますね。どこで、あなたが納得するか、もありますね。

自分を知りたいと思うのであれば、柔軟であることかなとも、思います。
出遇うものを、素直に受け入れたり、その中で生まれる気づきや感情に敏感でいたい。私はそう思うのですよ。そして、他者からの評価に、あ〜そう見えるのか、そう思ってもらえてるんだと、納得したり。何かの縁で声をかけてもらえたら、チャンスかなと取り組んでみたり。柔軟でありたいと思っています。

あなたも、自分が何者かとのテーマより、周りにあるさまざまなものへ柔軟に目を向けてみるのも、また違った自分の発見になるかもしれませんよ。

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はじめまして(*^^*) 中田みえです。 教善寺 住職として、母親として...
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自分を知るには自身とものとの関わりのあり方を見つめる

言葉に引っ掛かりすぎてしまっていると思います。
何でもかんでも「これも執着だ」「あれも執着だ」と悪く扱うと仏教を学ぶこと、生きること、息を吸うことですら執着扱いして、何もありません。
そういう風に、仏教の言葉でがんじがらめになってしまって、進むべき方向を見失ってしまう仏教者って実は多いと思います。

訂正ではありませんが、チョイと解釈に関して🍢つんつんさせていただきます。

☞仏教の教えに「無常」「縁起」「無我」というものがあり、
「あらゆるものは常に移り変わっていき」
「あらゆるものは関係性のなかで成り立っており」
「永遠不変な自分というものも存在しない」と理解しています。

ここをもう少し、深めてみることは大きな進歩になると思います。
無常とは常に移り変わるから「今、自身はどうなっている」のか。
縁起とは関係性の中で成り立っているといっても「今、自身はどうなっているのか」
無我とは不変な自分というものが存在しないということは具体的に「今、自身のどういうことをいっている」のか。
外の事にしてしまっていると思いますよ。
自身の事にならないと、救いにもなりません。

煩悩のモヤモヤ感はちゃんとした手応えのある仏教に出会えないから生まれます。
自分がせっかくの教えを試験や主観を加えて別物にしてしまっているかもしれません。
無常菩提を解いてくださるような仏教指導者に出会っていないから根底から決着がつかないのかもしれません。
仏教とは仏教という外の学問の事ではありません。
わが身わが子と、イマココの、自身のたった今のありようにこそ用がある。
仏教という知識や言語に用があるのではなく、自身の本当のありようがどういう様子をしているのかに用があるのです。
一切は無常なればこそ、今触れていることの一切が何もそこに後をとどめず、快適な現れてとして過ぎ去っている。そして同時に出会っている。これはみな如来。自己の身心に諸仏、仏、真実、出来事、現象、あらわれが現じているのです。
どのようにあなたの身心にあらわれていますか?
それこそが仏教の教えの中身でしょう。
見解を伴わず、良し悪しもなく、名前もないままに。
24時間、常に自己のスクリーン上に無我の上映会がなされている。
ここを放っておいて外に仏教を求めるから自分自身の本当の姿に出会えないのです。
この身は今ものに触れどうなっているか。

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質問者からのお礼

■中田 三恵様
ご回答を拝見していて、「時の流れに身をまかせ」という歌のフレーズが、なぜか頭に浮かびました。

身のまわりにあるさまざまな事柄に影響を受け、常に変化して定まることのない自分、というものを考えたとき、そんな不安定な状態に不安を覚えるのではないかと思いましたが、そんな定まらない自分というのも、あるいは卑小な私には知りえない、深遠な意味があるのかもしれません。

柔軟にいろいろなものを受け入れて、移り変わっている自分というものに身をまかせて生きることを、少しずつ楽しんでいければ、と思います。

ご回答いただき、ありがとうございました。

■丹下覚元様
ご回答いただき、ありがとうございました。
拝見させていただいて、正直なところ、どこまで理解できているのか何とも言えないのですが、仏教の教えについては、まだまだ借り物の言葉でしか語れていないとあらためて思いました。

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