お坊さんの奥さんとは
僧侶の方とご縁があり交際しております。
彼の人柄に惹かれ先のことではありますが将来は結婚もしたいと考えています。
しかし結婚を考える上で私には決定的に信仰心というものが足りないと思います。
実家にはお墓や仏壇はありましたが両親共にほぼ無宗教で何かを信じる、お祈りするということがわかりません。
彼とお付きあいしてから手を合わせたりお経を読むといったことを表面上はできますが彼とは違い、心の底から信じていますと自信をもって言えないのが辛いです。
お坊さんの奥さまは同じ信仰をもっていないとやはり問題でしょうか。
お寺に入れば自然と身に付くものなのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
心配ないですよ。
既に他の宗教宗派の信者であれば難しいでしょうが
今何も信じていないなら
これからそのご縁のある宗派に
帰依していくようになると思います。
私も妻も在家から今のお寺に入りましたが
そういう生活をしておれば
自然と身につくようになります。
心の底から信じているとは言い切れませんが
寺務はちゃんと務められていると思っています。
本当の信仰は強制できません
ご相談拝読しました。悩ましい問題ですね。
日本は法の下に平等であり、万人に信教の自由が保障されていますからお坊さんの配偶者であれその権利が無いわけではありません。
しかし信仰というのはけして「内心」だけの問題でなく「対外的」「表面的」な部分も大きいと思います。儀式や行事も伴いますからね。
内心では別の教えを信じている、あるいは特に信仰はないのに、お寺の行事においてお寺側の人として参加したり、信徒さんと関わることに苦痛を感じるならば厳しい面もあるのかもしれません。
また地域性や宗派の違い、さらには僧侶個人の思想の違いによって配偶者の信仰に対する態度や姿勢も異なるでしょうから、何よりもそのお相手の僧侶の方とよく話し合うしかないのかもしれません。
私は真宗大谷派ですが宗派内の規則を確認すると、住職の配偶者を坊守(ぼうもり)と称するのですが、坊守は「得度式を受ける=僧侶となる」ことが規則で定められていました…これには私もちょっと驚きました。
現実問題としては周りの寺院においても必ず坊守さんが得度しているかと言うと逆にその割合は低いと思われます。中には別の信仰のような人もゴニョゴニョ…。
私個人は妻に信仰を強制することはしませんがよく仏教の話はしますから自然と興味は持つようです。お寺の行事にも参加しますしね。でも信仰は本人に任せていますよ。
なお、ここ一番大事なのですが仏教の信仰とは「何かを信じる、お祈りする」ものではないのですよ。
言うならば「明日、雨が降るかどうかわからないのに雨が降ることを信じる」というものではなく、「今雨が降っていることを雨が降っているなとそのまま信じる」=「如実知見(にょじつちけん):ありのままに見る」というものです。
けしてわけのわからないものを拝んだり祈ったりして吉凶禍福をコントロールしようとするものではなく、いつでもどこでも誰でにでもあてはまる自然の法則に目覚め、その法則に逆らって自我にとらわれるからこそ苦しいのだと自分の自身の姿をあきらかにする信です。
あせらず気負わず、でもせっかくのご縁ですから真剣に、彼との関係も含めて仏教にも向き合ってみてはいかがでしょうか。
学ぶ時節に学ぶのが善く候
まず、日本の無宗教って、言うほど無宗教じゃないんです。キリスト教とかイスラム教の基準で言うと無宗教っぽいだけで。
そうすると、信仰心って何だよ?って話になります。だからお坊さんの中には信仰心と言わずに信心という言葉を使って言い分ける人も少なくありません。
「意味わからん」って思われるでしょう。
いつか分かって、雑談の中で自然と人にお話できるようになれば、優秀なお寺の奥さんです。
別に優秀じゃないといけないわけでもありませんが、「信仰心とはこうだ!」みたいな先入観を持たずにお寺に入っていただければと思います。私の感覚ではぶっちゃけ変な色に染まった人より、真っ白スタートでどんどん吸収してくれる人のほうがありがたいです。宗派によって信心の掴み方の違いと言いますか、ボルダリングの選ぶ出っ張りの違いみたいなのがありますしね。どの出っ張りが何宗か?というより、それを選んだらその次はアッチにしないとおかしな事になるよね、ゴールは一緒だけど。みたいな取り合わせがあるんです。
何も問題なし
仏縁があれば。
どのようなご縁であれ、お寺に嫁ぐ(嫁げること)ことは、それなりの仏縁があったということです。それぞれにお寺の形態、状況は違いますが、徐々に学んでいけばいいと思います。
尚、信仰心というものは、また違った次元のものですから、そのことも体験するしかありません。
最後に一言、「僧侶である夫が、自分の妻を信者にすることができれば本物です」