不生不滅
生きていることと死んでることではなにが違いますか?
死んでしまったらかわってしまうことは、なんでしょうか?
声が聴けなくなることでしょうか。言葉を交わすことができなくなることでしょうか。動いている姿を見れなくなってしまうことでしょうか。
姿・形を見れなくなってしまうことでしょうか。
自分の言葉や声が届かなくなってしまうことでしょうか。
死んでしまったら、一体なにが違うと思いますか?
不生不滅なら、生きていることと、死んでいることの、決定的な違いとは、なんだと思いますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
違うも違わないもどちらも言える自分
人には『見る自分』と『見られる自分』があります。
死ぬと見る自分(眼耳鼻舌身意)は離れ離れになります。ちょうど水が水蒸気となって散っていくように。
一方、見られる自分(色声香味触法)の影響力は留まります。親が死んでも、親の言葉は胸に残るように。
不生不滅は、「そもそも眼も耳も鼻も舌も身も意も、あるいは色も声も香も味も触も法も、どこにも自分なんて無いんですよ。自分ではないものが一時的に集まっているものを、自分だと錯覚しているだけなのですよ。だからそもそも自分が生まれるなんてことも、自分が滅するなんてこともないんですよ。世界の中にあなたがいるのではなく、あなたは本来、世界そのものなんですよ。水蒸気も水も山川草木、み〜んな世界でしょ?あなたも一緒です。だから変わるモンは変わるけど、揺るぎようのない世界として、大きな自分として在り続けるんですよ。何も心配はいりません。」ということです。
水が水蒸気になることを
変わると言えば変わると言えます。
変わらないと言えば変わらないと言えます。
その差の間で『自由』な心でいることが、仏教的な『安心』(あんじん)というものです。どういう答えが決定的かが大切なのではありません。
実際、仏さまもある時は「仏さまは宇宙そのものだ」と言いますし、ある時は「衆生の救済のため、あえて人(自分)として生きるのだ」とも言います。自由自在ですね。無我だからこそ、自由自在。
不生不滅というのは「こちら」の心のありよう・様子
生きてることと死んでることの違い。
それより生きながら死んでるような生き方しているかしていないか!
その方があなたにもみんなにとっても大事でしょう。
不生不滅とはどういうことか。
「世界はもともと人間の見解が伴わない」という事です。
坐禅仏行して、我見の濁りカスが沈んで仏法と等しくクリアーになることで明らかになる自身のホントの様子。
多くの人はそれを外のものが生滅・増減するという「外の事」だと思っている。
自身のありように生滅が無くなることが仏法の不生不滅。
だから、矛盾が生じる。
私たちはものごとを眺める時に、知らないうちに自分流の思い方をしている(いた)のです。ここを人類史上初めて気がつかれたのがお釈迦さま。
( ゚Д゚)「OMG…,私はモノ見てる時、自分流にあれこれ付け足してたわ…!」
「それ」によって人は悩んだり苦しんでいたという事を気づかれたのです。(Gって何)人間は事実に思いのつけ足しをせんことで救われるようになる。
人類史上の大発見です。
人がモノをみる時、直後に思うことがあるでしょ。
みた「もの(こと)」の方ではなく、直後わたしが思えたことの方を大事にしているのです。(
ワイドショーはむしろそっちをやっている。誰かが何か事件起こすと、みんなそれぞれの思い方をする。生滅・増減・損得という「脳内セカンドワールド劇場」を観ている。
「そっち」じゃないのです。
私見や我見なしにモノを見ている時は、観念による生滅・清濁・善悪・是非・正邪がこの身に起こらないさまがある。
森を見れば生とも呼べましょうが、土の中に沢山の死もあり養分となって今の木々が生い茂っています。死を超えた生。
これを何というや。言葉にすれば堕する。
それは「見解」(考え・思い方)でそれを眺めた世界だからです。
LIVE。
生命の実況中継。
死の実況中継。
生きてる時はちゃんと生死を超えて生きています。呼吸をしています。
死んだときには「死」ということだけがあります。
本人は自覚すらできません。それが死です。
生の時は生。死の時は死のみ。
それ以外に「心が旅立たない」のです。
心が旅立つとは、人が死んだらどこかへ向かうのではないかとか、地獄や極楽へ行くのではないかと心がその方への死に対して自分流の見解を起こすことです。
不生不滅とはあなたが心が旅立たない最高の心を教えてくれているのです。
死人に口なし
親父が生きている頃、自分の意見に対して父はああ言ったりこう言ったりしてくれました。
時には私が失望するような言葉も言いました。
今となっては何も言ってくれません。ただこういうんじゃないかと妄想するのみです。美化された父は私の一つの道標となっています。
生前父に対してここまで彼の気持ちを想像したことはありませんでした。
韓国に行ったときに電車で韓国人のおばちゃんたちが言ってました
「私達はいいご先祖になりたいねぇ」と。
『生を明らめ、死を明らむるは、仏家一大事因縁なり』。
生と死の違いを考えるとき
いつも私はこの言葉を思い出しています。
佐藤一斎という方の言葉です。
『海水を器に汲み、器水を海に返せば、死生は直ちに眼前にあり。』
(海水を器に汲んで、また海に戻す。器の水はもとの海に戻るだけで無くなったわけではない。
あなたの生死も同じことである。)
『不生不滅』とはこのように見ることもできるのではないでしょうか。
『生きていることと、死んでいることの、決定的な違いとは、なんだと思いますか?』
そもそも決定的に違うから、生きていることと、死んでいることを
私たちは判別できるんではないでしょうか。
私にはそうとしか思えないから、違いについて考えるときは佐藤一斎の言葉で何となく納得した気になっていますけれども。
というのは
私は、どうやっても「死」を観念でしかとらえることが出来ませんので(死の恐怖は分かるかもしれませんが、、死ではないですね。)
生と死の違いは、観念の違いというほかないと思うからなんですね。
観念ならば物は考えようで、死があるから生を認識できるといってもいいでしょう。
死があるから生がある。生があるから死がある。
逆に言えば、生がなければ死ということもない。
『不生不滅』とはそのことでしょう。
しかしこれ『 』ももれなく観念でしょうから、真実とは言い難いです。
私には私の生死しかお答えできません。
大事なのは
その問いが自分のどこからやってくるのかを知ることだと思います。
仏の道を行く者の大事でもあります。『仏家一大事』ともいいます。
私はそう捉えています。
ご自分の生死はご自分の身において
どうか答えを見つけていただきたいです。
佐藤一斎という方のお言葉、
参考にしていただければ幸いです。
南無釈迦牟尼仏 合掌
「八不中道」
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「八不中道」は、「一切は、縁起し空である」ということの理解をするために説かれてある教えとなります。
もちろん、「不」とあるとは言え、一切は「無い」わけではありません。
一切、そして、生も死も、「縁起」として成り立ち得ています。
ただ、「縁起」として成り立ち得ているものは、「空」であり、つまり、「実体が無い」というものとなります。
私たち凡夫は、それら実体の無いものに、あたかも実体があるかのように錯覚を起こし、囚われてしまうことで迷い苦しんでしまっているのであります。
生と死も、生と死、それぞれを切り離して、あたかも生が実体としてあるかの如くに、死が実体としてあるかの如くに囚われてしまっているのであります。
そんな実体は微塵もありませんよということを、「八不中道」は説き示すところとなります。
是非、龍樹大師の「根本中論」からその理解に取り組んで頂けましたら有り難いことでございます。
川口英俊 合掌
死んでも次の瞬間には生きている
死んでも死にっぱなしではありません。
次の瞬間には新しい生命に輪廻転生してしまうので。
ですから、死んでいる状態というのはほとんど無いので、それについてあれこれ考えても意味はないでしょう。
昨日食べたから揚げの鶏肉が、実は死んだ先祖が生まれかわった鶏のお肉だったかもしれないのですから。
あなたが死んでも、次の瞬間にはゴキブリの受精卵に生まれ変わるかもしれないし、極楽浄土の蓮の華の中に菩薩様として生まれるかもしれないのです。
何に生まれかわるかによって、「死んだあと」はさまざまです。
質問者からのお礼
すてきなおことばをたくさんいただきました。
ありがとうございました。