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不生不滅

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生きていることと死んでることではなにが違いますか?
死んでしまったらかわってしまうことは、なんでしょうか?
声が聴けなくなることでしょうか。言葉を交わすことができなくなることでしょうか。動いている姿を見れなくなってしまうことでしょうか。
姿・形を見れなくなってしまうことでしょうか。
自分の言葉や声が届かなくなってしまうことでしょうか。
死んでしまったら、一体なにが違うと思いますか?
不生不滅なら、生きていることと、死んでいることの、決定的な違いとは、なんだと思いますか?

2019年2月11日 19:48

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お坊さんからの回答 6件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

違うも違わないもどちらも言える自分

人には『見る自分』と『見られる自分』があります。
死ぬと見る自分(眼耳鼻舌身意)は離れ離れになります。ちょうど水が水蒸気となって散っていくように。
一方、見られる自分(色声香味触法)の影響力は留まります。親が死んでも、親の言葉は胸に残るように。

不生不滅は、「そもそも眼も耳も鼻も舌も身も意も、あるいは色も声も香も味も触も法も、どこにも自分なんて無いんですよ。自分ではないものが一時的に集まっているものを、自分だと錯覚しているだけなのですよ。だからそもそも自分が生まれるなんてことも、自分が滅するなんてこともないんですよ。世界の中にあなたがいるのではなく、あなたは本来、世界そのものなんですよ。水蒸気も水も山川草木、み〜んな世界でしょ?あなたも一緒です。だから変わるモンは変わるけど、揺るぎようのない世界として、大きな自分として在り続けるんですよ。何も心配はいりません。」ということです。

水が水蒸気になることを
変わると言えば変わると言えます。
変わらないと言えば変わらないと言えます。
その差の間で『自由』な心でいることが、仏教的な『安心』(あんじん)というものです。どういう答えが決定的かが大切なのではありません。

実際、仏さまもある時は「仏さまは宇宙そのものだ」と言いますし、ある時は「衆生の救済のため、あえて人(自分)として生きるのだ」とも言います。自由自在ですね。無我だからこそ、自由自在。

2019年2月11日 22:42
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おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み) 最近YouTubeを...

不生不滅というのは「こちら」の心のありよう・様子

生きてることと死んでることの違い。
それより生きながら死んでるような生き方しているかしていないか!
その方があなたにもみんなにとっても大事でしょう。

不生不滅とはどういうことか。
「世界はもともと人間の見解が伴わない」という事です。
坐禅仏行して、我見の濁りカスが沈んで仏法と等しくクリアーになることで明らかになる自身のホントの様子。
多くの人はそれを外のものが生滅・増減するという「外の事」だと思っている。
自身のありように生滅が無くなることが仏法の不生不滅。
だから、矛盾が生じる。
私たちはものごとを眺める時に、知らないうちに自分流の思い方をしている(いた)のです。ここを人類史上初めて気がつかれたのがお釈迦さま。
( ゚Д゚)「OMG…,私はモノ見てる時、自分流にあれこれ付け足してたわ…!」
「それ」によって人は悩んだり苦しんでいたという事を気づかれたのです。(Gって何)人間は事実に思いのつけ足しをせんことで救われるようになる。
人類史上の大発見です。
人がモノをみる時、直後に思うことがあるでしょ。
みた「もの(こと)」の方ではなく、直後わたしが思えたことの方を大事にしているのです。(
ワイドショーはむしろそっちをやっている。誰かが何か事件起こすと、みんなそれぞれの思い方をする。生滅・増減・損得という「脳内セカンドワールド劇場」を観ている。
「そっち」じゃないのです。
私見や我見なしにモノを見ている時は、観念による生滅・清濁・善悪・是非・正邪がこの身に起こらないさまがある。

森を見れば生とも呼べましょうが、土の中に沢山の死もあり養分となって今の木々が生い茂っています。死を超えた生。
これを何というや。言葉にすれば堕する。
それは「見解」(考え・思い方)でそれを眺めた世界だからです。

LIVE。
生命の実況中継。
死の実況中継。
生きてる時はちゃんと生死を超えて生きています。呼吸をしています。
死んだときには「死」ということだけがあります。
本人は自覚すらできません。それが死です。
生の時は生。死の時は死のみ。

それ以外に「心が旅立たない」のです。
心が旅立つとは、人が死んだらどこかへ向かうのではないかとか、地獄や極楽へ行くのではないかと心がその方への死に対して自分流の見解を起こすことです。
不生不滅とはあなたが心が旅立たない最高の心を教えてくれているのです。

2019年2月12日 17:55
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おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
☎お悩み相談 📞08020659278 法話禅会 毎週日曜3時より...

死人に口なし

親父が生きている頃、自分の意見に対して父はああ言ったりこう言ったりしてくれました。
時には私が失望するような言葉も言いました。

今となっては何も言ってくれません。ただこういうんじゃないかと妄想するのみです。美化された父は私の一つの道標となっています。
生前父に対してここまで彼の気持ちを想像したことはありませんでした。

韓国に行ったときに電車で韓国人のおばちゃんたちが言ってました
「私達はいいご先祖になりたいねぇ」と。

2019年2月11日 22:06
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おきもち

人生の転機になる「一転語」をあなたに。 ハスノハで返信しきれない内容...

『生を明らめ、死を明らむるは、仏家一大事因縁なり』。

生と死の違いを考えるとき
いつも私はこの言葉を思い出しています。
佐藤一斎という方の言葉です。

『海水を器に汲み、器水を海に返せば、死生は直ちに眼前にあり。』
(海水を器に汲んで、また海に戻す。器の水はもとの海に戻るだけで無くなったわけではない。
あなたの生死も同じことである。)

『不生不滅』とはこのように見ることもできるのではないでしょうか。

『生きていることと、死んでいることの、決定的な違いとは、なんだと思いますか?』

そもそも決定的に違うから、生きていることと、死んでいることを
私たちは判別できるんではないでしょうか。
私にはそうとしか思えないから、違いについて考えるときは佐藤一斎の言葉で何となく納得した気になっていますけれども。

というのは
私は、どうやっても「死」を観念でしかとらえることが出来ませんので(死の恐怖は分かるかもしれませんが、、死ではないですね。)
生と死の違いは、観念の違いというほかないと思うからなんですね。
観念ならば物は考えようで、死があるから生を認識できるといってもいいでしょう。
死があるから生がある。生があるから死がある。

逆に言えば、生がなければ死ということもない。
『不生不滅』とはそのことでしょう。
しかしこれ『 』ももれなく観念でしょうから、真実とは言い難いです。

私には私の生死しかお答えできません。
大事なのは
その問いが自分のどこからやってくるのかを知ることだと思います。
仏の道を行く者の大事でもあります。『仏家一大事』ともいいます。
私はそう捉えています。

ご自分の生死はご自分の身において
どうか答えを見つけていただきたいです。
佐藤一斎という方のお言葉、
参考にしていただければ幸いです。

                      南無釈迦牟尼仏 合掌

2019年2月11日 21:35
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「八不中道」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「八不中道」は、「一切は、縁起し空である」ということの理解をするために説かれてある教えとなります。

もちろん、「不」とあるとは言え、一切は「無い」わけではありません。

一切、そして、生も死も、「縁起」として成り立ち得ています。

ただ、「縁起」として成り立ち得ているものは、「空」であり、つまり、「実体が無い」というものとなります。

私たち凡夫は、それら実体の無いものに、あたかも実体があるかのように錯覚を起こし、囚われてしまうことで迷い苦しんでしまっているのであります。

生と死も、生と死、それぞれを切り離して、あたかも生が実体としてあるかの如くに、死が実体としてあるかの如くに囚われてしまっているのであります。

そんな実体は微塵もありませんよということを、「八不中道」は説き示すところとなります。

是非、龍樹大師の「根本中論」からその理解に取り組んで頂けましたら有り難いことでございます。

川口英俊 合掌

2019年2月12日 5:54
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おきもち

死んでも次の瞬間には生きている

死んでも死にっぱなしではありません。
次の瞬間には新しい生命に輪廻転生してしまうので。
ですから、死んでいる状態というのはほとんど無いので、それについてあれこれ考えても意味はないでしょう。
昨日食べたから揚げの鶏肉が、実は死んだ先祖が生まれかわった鶏のお肉だったかもしれないのですから。
あなたが死んでも、次の瞬間にはゴキブリの受精卵に生まれ変わるかもしれないし、極楽浄土の蓮の華の中に菩薩様として生まれるかもしれないのです。
何に生まれかわるかによって、「死んだあと」はさまざまです。

2019年2月12日 3:35
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おきもち

浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

質問者からのお礼

すてきなおことばをたくさんいただきました。
ありがとうございました。

「死について」問答一覧

なぜ死を選ぶ事は悪とされるのでしょうか。

私は幼い頃から両親に愛情をもらえませんでした。優しい顔をする反面、親同士は毎晩毎晩、口を開けば私の養育費や世話をどちらがするか揉めていました。 鍵っ子だったので一人でいる時が逃げ場でした。 学校でもうまく馴染めず生きづらさを感じ、中学高校では軽く虐められたりキモいブス死ねなど頻繁に言われてきました。 後に生きづらさはADHDから来ていたものだとわかりました。 逃げ道としてバンドの夢を追いかけましたがメンバーからもずっと役立たずや死ねなど罵詈雑言の嵐。それでも夢の為に頑張りましたが裏切られ解散。 首を吊ろうとしましたがあと一歩踏み出せませんでした。お前はどうせ勇気がないから死ねないと言われた事をとても覚えています。 当時結婚を考えていた人にも浮気され何も持たない日々を今送っています。 どうせ死にたいのだからメメントモリよろしく、いつ死んでもいいようにと夢に向かって生きました。 夢は潰えましたがやりたい事をやり切った気持ちもあります。 今は朝日を浴びても美味しい物を食べても異性の温もりに抱かれても何も喜びを感じません。なぜ生きているのかわからず何も生産性の無い自分に生きてる意味も価値も見出せません。早くお迎えがきて欲しいと、苦しんでは息を吸い、絶望しては息を吐きます。 皆一様に、人は好きに生きる権利があると謳うのになぜ人は好きに死ぬ権利はないのでしょうか。 安楽死制度のようなもので死にたい時に幸せに死ねるほうがいいと思います。 死にたい事が苦しいのではないのです。 死にたい日々に終わりが見えない事が苦しいのです。 誰かの為に生きる事が喜びと言う人もいますが、それは強者の為に弱者の命が薪のように焚べられているだけで それを使命と呼べる人はいいでしょうが私には思えません。 私より優れた人はたくさんいて私より必要とされる人もたくさんいる。 友と呼べる人もなく、心許せる人もいない私には人生全うしたと心から思える歌に安らかに死ぬ事こそが幸せです。 もがき苦しみ泣きながら死ぬ必要などあるのでしょうか? 心の底から自ら死んでいった人達を悼みます。 一刻も早く安楽死制度を作るべきだと思います。生きたい人が笑顔で生き、死にたい人が安心して死ねる社会を望む事はおかしいでしょうか?

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幸せなはずなのにいつも死にたいです

はじめまして。私は幸せなはずなのに、なにをしていても常に死んでしまいたい気持ちでいます。 私にはたくさん友達がいて、仲の良い家族がいて、かわいい犬もいます。 大学生なのですが、アルバイトやボランティアと両立し、自分で言うのもどうかと思いますが成績も良く、充実しているはずです。 不満は1つもないです。 しかし、いつも死ぬことを考えてしまいます。 朝、目が覚めるとがっかりします。電車のホームで急行列車を見ると飛び込んだらどうなるだろうと思います。どのくらい食事を取らなかったら動けなくなるんだろうと考えながらご飯を食べます。 家族や友達と楽しく過ごしている時に、ふと私が居なくなったらどんなふうだろうと思います。 いつからこんなふうに考えるようになったのか、もう思い出せません。 私は優しくしてくれる人がたくさんいて幸せです。もし死んでしまったら多くの人が悲しむというのもわかっています。 それだというのに、ずっと死にたいのはどうしてでしょうか。 私は周りの人に感謝して生きるべきですが、どうしても死にたいです。 この気持ちを消すことはもうできないのではないかと自分では思っていますが、死にたいと思っていても、その気持ちと一緒に生きていくことはできるでしょうか。

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孤独死を迎えるにあたって

お世話になっております。 以前、「自業自得の孤独を乗り切る方法」という内容でご相談した者です。 あれから丸一年、就業先を自分なりに探してみましたがやはり現実は厳しく、現在も無職かつ貯蓄も底を尽きそうな日々を過ごしております。 本日お伺いしたいのは 「孤独死」が確定した中で「今生での生活」を営む事すら金銭的に厳しくなる中どうしたら、せめて心穏やかに旅立てるのか、です。 行政、各所支援団体含め当たった上でも 「生(活)」する為の資金は得られず、かと言って自死する勇気もなく、だらだらと毎日息をする日々。待っているのは老いと病→いつかどこかで物理的に腐敗し、発見されて、最上の弔いがあった所で無縁仏です。 死ぬ瞬間はいつ、どこで来るかわかりませんし、死後の世界も未知の中、 【質問】 ・どう思って生きれば、死の瞬間を穏やかに迎えられるのか(物理的苦痛少なくの意味) ・今生で「ただ息をして今日を生きる(現実的にそうするしかない状況)」に意味はあるのか、あるならば何が出来るのか ・死に方により、死後の世界?は変わるのか ※各宗派により見解異なるかと思いますが、少しでも苦痛少なく、今生を終えられたら、と思います。

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親戚の葬式後のメンタル

今日、祖父の姉の葬式がありました。 離れたところに住んでおり最後に会ってから10年近く経っていますが、小さい頃遊んでもらってお世話になった人なので、最後の機会だと思い向かいました。 棺に花を入れる時や火葬では涙が出そうになりましたが、悲しいよりも、もらい泣き、雰囲気につられているだけだと思いました。 ところが葬式が終わり、帰ってきてから夜。 もし自分の子供が死んでしまったら… もし夫が死んでしまったら… と考えると涙が止まりません。 事故、事件など最悪の可能性を想像してしまいます。 少しですが、自分も死んだらどうなる?と子供みたいな事を考えてしまいます。 1度考え出すと止まらず心がぐちゃぐちゃです。 葬式に行かなければよかったとすら思います。 こんなに心がボロボロになるなら、もっと近い人の死で自分がどうなってしまうか怖いのです。 その人がいなくなって悲しいのに加え、お見送りをした後も、こんなにも怯えなくてはならないのでしょうか。 こう考えてしまうのは普通ですか? 亡くなった人だけの事を考えないのは薄情ですか? 検索しても、近しい人の死後のメンタルを労る記述があっても、私とは違い相談できるのがここしかありませんでした。 今後あるであろう死の度、これではとても心が持たないと思い どう思えば前向きに見送ることができるのか、 大きすぎる不安を感じなくていいのか 教えていただきたいです。

有り難し有り難し 7
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老化、病、安楽死、尊厳死

啖呵切ってハスノハとはお別れ宣言したのに出戻りですみません 結局私はここでしか辛い苦しみと悲しみを吐き出せません どうして死んではいけないのですか。 自殺率世界一位、幸福指数世界最低のこの国で、どうして死は許されないのですか 生きたかった筈の生命の中絶ですら許されているのに 命に別状がない程度の、だけど治りやしない病を永遠に抱えていく人生で、辛くて辛くて死にたいです もう体は勿論心も痛くて辛くて死にたいのです。生きてきた間、こんなにも辛い思いをしているのですから、せめて最後は安らかに死にたいです。もうあらゆる事から許されたいです 私は医者が大嫌いです それでも今日、耐え難い痛みに苛まれて病んだので、嫌な気持ちを我慢して、病院にいきました 医者は、貴方程度の患者は星の数ほどいると言い、多少の嘲笑も交えて。ろくな内診も診察もせず 医者にすら病の苦しみを理解して貰えず、私は心底悲しみ、生まれてきたことすら後悔しました。介護してくれている親にも申し訳ないです もう何もかもが嫌です。死にたいです。死にたいです 本人は辛くて生きていたくないのに 社会は自殺者に対して非常に厳しく 安楽死に否定的です 自分で命の決着を決める尊厳死の制度の何がいけないんですか 死にたいです。辛いです。毎晩生き恥をさらし心身の苦痛に泣いてます どうしたら良いのかわかりません 死にたいです 大好きな親にそっと息の根を止めてほしいと思ってしまいます もう限界です 答えにくかったら回答は不要です 辛い気持ちを吐き出させて頂きありがとうございました

有り難し有り難し 18
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