仏様を欺くという事
・三帰礼文(今、人として生まれたことに感謝し、仏、法、僧の三つの宝を敬い、拠り所にして生きます)
・十善戒(正しい行い、正しい言葉、正しい心を保つ事を誓います。)
・発菩提心真言(私は今、悟りを求むる心を起こしましたという真言。オンボウチシッタボダハダヤミ)
これらの経や真言を「全くその気がない者」がするとどうなりますか?例えば…
私の声「オンボウチシッタボダハダヤミ…」
私の心の声(別に悟りに興味ないし…単にこの真言を唱えたいだけだ)
私の声「三帰礼文~!~自ら仏に帰依し奉る。まさに願わくは衆生と共に~…」
私の心の声「仏様は大好きだけど帰依とかそんな重たい誓願なんてしたくないよ…しかも衆生と共になんて!衆生の事なんてどうでもいい!自分や家族さえ良ければそれで良いんだよ!」
このように私が経や真言をする時はなんとなく仏様を近くに感じたい時、落ち着きたい時などに座禅を組み合掌(印母)を結びながらやってます。
単に仏教の教えにあまり興味なく仏様が大好きなだけなんです。
でも一つ言い訳させてもらいますが、私は決して仏教や仏様を茶化したり、品位を下げたりする気など無いんです。
単に「戒律を守れない、守る気すら失せた」「衆生がどうなろうが私の知ったことじゃない」「自分や家族さえ幸せならそれで良い」というだけなんです。
ただ「疑城胎宮」の境地から抜け出す気なども失せて「もうこのまま疑城胎宮の中でまったりするのも良いか…」というだけなんです。
【しかし声に出してソレらを唱える以上、それは一つの約束、仏様と交わす誓いになりますよね?その誓願を初めから守る気など無くアッサリ誓いを立てては破り続ける…】
このように仏様を欺き続ける私を、カタチだけの“仏教ごっこ”を楽しむ私を仏様はどう思うのでしょう…また実際に本物のお坊さんが私を見たらどう思いますか?
私はハッキリとモノを言われないと分からないバカなのでよろしくお願いします。
ちなみにこれらの事はあくまで「私独り」の中で完結させているので、決して周りに仏教を語ったりなどはしていませんのでそこはご安心を。
・家族が遠く離れている、友達もいない、師もいない、社会との繋がりもないヒト。 ・“悟り”よりも“ご縁”を求めて足りない頭で神道の神様や仏教の仏様の事をまったり独学で勉強中。 ・子供の頃の嫌な思い出を思い出したりして独りで勝手にイライラしたりする感情に支配されるヒト。 ・自分の欲望を抑えたりするのがとても苦手なヒト。 ・遠く離れている家族の幸せや神仏とのご縁を願ってよく神社やお寺をお参りしてるヒト。
あらゆる煩悩が形を成したのが自分だと思います。 煩悩をとり除いたら自分が自分で無くなる気がして怖いので「煩悩を受け入れつつなんとか出来ないか」と今は道を模索しています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなた自身が本当は「私独り」で完結したくないのでは?
こんばんは。ご相談拝読しました。
お久しぶりにご縁をいただきます。以前に私が申し上げた「疑城胎宮」についての問題意識を持っておられるのですね。嬉しく思います。
あなたが今お抱えの問題や不安や疑問についてお坊さんが何かハッキリと言わなくとも、いやあるいは「そのままでいいよ」とハッキリ言ったとしても、もうすでにあなた自身があなたの大好きな仏様から
そのままでいいの?
と問われているのではないですか?だから不安になってこうして大事な問いを起すのではないですか?
あなたの大好きな仏様はあなたがあまり興味がないという仏様の教えや願いと不可分です。分けられません。
だからこうして問われてくるのだと思います。
仏様が好きだから仏様の教えの言葉も称える。称えたらその教えに反している自分が問われてくる。これってすごく大事な事ですよ。もうすでに教えや願いの中にいるのです。
もちろん自分の都合のいい思い、すなわち「疑城胎宮」に留まろうとしてしまう私たちが紛れもなくいる事実があります。でもそれをも許さぬ教えのはたらきがあるのです。
そのはたらきから受ける影響で生じる不安や疑問をごまかしてほしくないなあと私は感じます。
質問者からのお礼
法覚寺 、吉武文法さんお久しぶりです!ご回答ありがとうございます。
「あなたの大好きな仏様はあなたがあまり興味がないという仏様の教えや願いと不可分です。分けられません。」
「仏様が好きだから仏様の教えの言葉も称える。称えたらその教えに反している自分が問われてくる。これってすごく大事な事ですよ。もうすでに教えや願いの中にいるのです。」
ハッキリと言われてもう眼が覚めたのか閉じたのかも分かりませんが、これが道理だという事くらいは私にも理解出来ています。
吉武文法様がかつて私に僧伽を薦めてくれた日から血眼になって探し回っていざ見つけてもその門を叩く事も出来ずに帰り、いつも通りネットや書籍で仏教を学び勤行と称したお坊さんごっこに耽っていました。
「自分の居心地の良さから出ず殻に籠るだけの学びは本当に学びと言えるのか?」この言葉も今でも考え続けては葛藤を続けています。
それでも今は幾度となく破戒を繰り返し、今や戒律など守る気も失せ、戒律を破る罪悪感も日に日に薄れていく中で疑城胎宮に留まり続けるのも悪くないと考える境地にまで来ました。
…でも。…しかし。と考えて、開き直り仏教に背中を向ける事も出来ず白黒ハッキリさせられず今があります。
もしも私に僧伽の門を叩く勇気があれば、もしも私に戒律を守れる強さがあればこんな歪な状態にはならず、決して自分本位に快楽だけを求めるようなマネはしなかった。
力さえあれば私だって迷える衆生を、中でも私のようなロクでなしや善人にも悪人にもなりきれなかった半端者、ただただツイてなかった奴らを救いたかった。
実はこの質問と似たような質問をした時に別のお坊さんから「悩む時点で菩提心がある」「皆仏さまの教えを守れないからこそ頑張って修行している」「成功は今生だと思うのは間違い、来世かも?」といった内容のご回答を頂きました。
もう今世は歪な自分を受け入れてせめて来世へ、または今世の衆生に今の私を見てもらいたいです。
釈迦に説法とはまさにこの事ですが「これが破戒だ」「これが疑城胎宮に留まるという事だ」「こうなったらいけませんよ」という意味で私を見て欲しいです。
…でもこの先もしかしたら何か不思議な縁で大きく変われるかもしれませんね?これには期待しています。
悩みに悩んだ末に「何も出来ないまま終わりたくない」「せめて来世に種を蒔きたい」という気持ちだけは疑城胎宮の中で破戒を繰り返す私にだってハッキリさせる事が出来ましたから。
またご縁を頂けたら嬉しいです。
ご回答ありがとうございました🍀🍀🍀🍀