死にたくないけど自傷、薬がやめられない
はじめまして。
よろしくお願いします。
私は毎日毎日、夕方になるとなんとも言えない寂しさや辛さにより、毎日薬を飲みすぎたり、自傷してしまいます。
その気持ちを紛らわそうと趣味を作ったり、テレビを見たりしましたが、だめでした。
もういい大人なのに、恥ずかしくて親しい人には言えません。
病院には通っていますが、こんな生活を1年半ぐらい続けています。
もう、どうしたらいいかわからないです。
助けてください。
守るべき人がいるので、死にたくないです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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夕方の寂しさ・辛さは成長の証です。
はじめまして。亀山純史と申します。
あなたは毎日成長しています。もちろん一日で人間は大きく変わるわけではありません。毎日の変化の度合いは、目には見えないほどのものなのです。
そして夕方に寂しく感じたり、辛く感じるのは、その日々成長していることへの証であると捉えてはどうでしょうか。毎日、あなたは古い殻を脱ぎ捨てて成長しているのです。古い殻は色あせているので寂しく感じます。でもその殻は自分の殻ですから、それを脱ぎ捨てようとすると辛く感じるのです。
ですから、夕方になって寂しく辛く感じても、何も心配することはありません。寂しくなったら、辛く感じたら、手を合わせて「今日も一日を終えることが出来ました。」と、その日への感謝の気持ちを言葉にしましょう。それでOKです。あなたは確実に成長しています。
以上が私からの回答です。少しでも、心の支えになれば幸いです。
星に、願いを。
お辛いことと、存じます。
夕方に訪れるというその不安のもとには、眠ることへの
不安もあるのかと存じます。
目をとじてしまうと、そのまま起きられない。すなわち
死んでしまうかもしれないという、不安の圧力が、あなたの
こころに訪れてしまっているのかもしれません。
死とはだれにも来る「明日」の世界です。
わたしたちの未来には必ず「死」があります。
でも、わたしもあなたも、そんな未来のことなどわかっていても
予定を入れたりしてしまうのです。
それは、「明日がくることを信じているから」です。
信じる、というのは、なにもかみほとけのようなものを
信仰することのみをいうものではありません。
守りたい人を守っていきたい、というこの願いもやはり
明日を信じる思いにつながるものです。
その明日が、善き日となるように、信じて願うか、
それとも、明日を恐れるあまりに、自分の「不安なこころ」
を信じてそれをいつまでも抱えておくのかは、
あなた次第なのです。
過去のなにか辛い出来事も、未来の事も、
いま目の前にあるものではありません。無いものです。
過去の辛さをそのままにするか、
それとも善き土台だったとするか、ここにも
信じる
という思いひとつが働くのです。
その信じるという思いを動かすのが「願い」や「祈り」です。
どうか、よき明日になるように。
自分だけではなく、縁のあるなしに関わらず、すべての
いのちに、よき明日となりますように。
わたしはいつもこの願いを、寝る前に手を合わせ、唱えます。
叶うかかなわないかが問題ではありません。
願うことが大事です。
あなたがいま、あなたに出来る事。その最小限度が、願い、祈り
です。
わたしもあなたに出来ることは、あなたにさちあれ、さちあれと
祈ることであります。さちあれ。さちあれ。合掌