他罰を受けに行くという自傷行為
本日も、過去の罪についてのお話を聞いていただければと思います。
私は過去の問答でも何度も投稿した通り、多くの罪を犯した罪人であり、罪を自覚してからは日々、反省と懺悔に努め、また死ぬまでに少しでも世の中に善い芽を遺して死のうと、自分にできる善をつみながら生きている毎日です。
最近は罪悪感に酷く苛まれ何も考えられない、というようなこともなく、こんな私でありながら、朝日に照らされ健やかに生きることができています。しかしながら、何故そのように生きることができているかと言いますと、ある行動を控えていた(少し避けてしまっていた)からだと思っています。
それと言うのが、罪の意識を再確認するために、また自らを追い詰め罰を受けるために、私のような加害者を酷く糾弾し強く非難している言葉の数々を意識的に見に行くという行為です。その行為によって、少し気持ちが緩んでいるときや浮かれているときでも、今一度罪を認識し改めることができるのです。しかしながら、やはりどうしても心身を消耗してしまうため、最近は意識的に避けてしまっている節がありました。私は義務として、責任としてそれらから目を逸らしてはいけないと思っていながら。
それらには本当に多くの方の苦しみや恨みの感情が込められていて、どうしてもどうしても耐えきれずにおります。また、多くの方の恨みを目にする中で、私はそれら全てを背負わねばならない=私は忘れているだけでこれ程酷い行為の数々をやってきたのではないか?と少し錯覚させられつつあります。(実際そうである可能性もあり、自分の過去が本当に恐ろしいです。)
正直な気持ちを申しますと、苦しく辛い行為です。しかし、自己満足であり自傷行為であると分かっていながらその行為をやめた私は生きている価値のない・罪を何とも思わない屑人間に成り下がってしまうという思いが消えません。罪を犯したものとして、これ以上悪に心許してしまったらいけないのに。
心の中の私(かもしくは誰か)が、「非難・糾弾を受けとめろ」「見に行け」と話しかけてくるような思いです。
この私の行為について、お坊様方の客観的な御意見をお聞かせいただけたらと思っています。
また、常日頃から罪を忘れずに生きる心構えについても、お聞きしたいです。
乱文、長文失礼致しました。最後まで読んでいただき本当にありがとうございます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
拝
自分と同じような罪に対するコメントを見なくなったら楽になったんですね
一つはこの事実をありのまま受け入れましょう
罪は他を貶め己を追い詰める事
その事実は変わりませんが
自分から「忘れてはいけない!」
「私は最低だ!」などと
自分を追い詰める事には
なんの意味もありません
ですから罪を忘れないという事が正しい学びなわけでもありません
大体の人は罪とは知らず
罪を罪とも思わず罪を犯すのです
つまりは意識や注意力が低いから
そういう事故や他に対する配慮が欠けます
客観的に自分を見る事を出来ないから人を傷つける
それらは自身の幼さとも言えます
貴女のそれら過去の行為は罪というより
未熟さなのです
貴女が求めるべきは精神的な成熟であって
あれも罪だった
これも罪だった
この罪を重く背負ったまま行かなくては!
などと思ってみたところで
貴女の周りの世の中は暗くなり自他を不幸にする事になる
罪は忘れてはいけないのではなく
罪を犯す前に「気づく」慎重さや
気遣う「優しさ」が必要です
そもそも罪は殆どが自分の事ばかり考えている自意識優先の時に起きる
罪を忘れないことに集中していると
そういう本質的なところから離れやすくなってしまいますよね
ですから貴女の今の対処方はあまり意味がありません
だってそうでしょう
貴女は罪を忘れはしないはずです
貴女が怖いのは自分の未熟さです
罪が悪い
忘れてはいけないと
悪を決めつける事は簡単なのでそれに寄ってしまっているようですが
大事な事は己の内面や行動
人の痛みなど
色んな事に気をつけられるようになる事です
苦行に意味はないのです
正しい修行をしましょう
合掌
質問者からのお礼
丸山 晃俊様
ご回答本当にありがとうございます。頂いたお言葉をじっくりと読んで心に刻みつけました。
今一度考えてみると、私が行っていたその行為によって誰かが笑顔になったり幸せを感じるということもなく、そして私は罰を受けている気持ちでありながら何処か「自分を罰している=許し」を勝手に感じて、浸っていた節があると思いました。まさしく私一人のための自己満足で、自傷行為そのものであったと思います。そして丸山様の仰る通り、私はこの行為によって本来私が見つめるべき本質(何故罪を犯したのか、人の痛みを想像するということ等)から外れ、「自分はこんなに非道い人間なのだ」「死ぬまで自戒し苦しむべきだ」と生産性のない自己批判ばかりを行っていました。
私の中の、作り上げられた大衆(私に恨みや苦しみを見に行ってこい、苦しんでこいと囁く者たち)は、きっとこれからも私の心に居座り続け、私に苦しむよう語りかけ胸を刺してくるのだろうと思います。所謂それらが私の罪悪感の形で、ある程度持っておきたいものでもあります。しかしながら、それらに耳を傾け過ぎて、本来見誤ってはいけない本質を忘れてしまわぬように、心の舵をしっかりと取っていきたいと思います。
これからは、何故あのとき罪を犯したのか(心理)、どうしていれば罪を犯さずにいられたのか、人の痛みを想像し自分のことのように思う共感性の力など、それら罪の本質を長く長く見つめていき、これからの世の中から少しでも新たな被害・加害の関係性を減らせるように、もう二度と同じ過ちを犯さぬように、努めてまいります。
忘れさせまいとする私の罪、それらを背負いながら、私の考える正しい修行に努めてまいります。
改めて、ご回答本当にありがとうございました。