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卑屈な心を直し人としての誇りを取り戻すには

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有り難し有り難し 19

私は人から馬鹿にされたり酷い目にあわされてもそれを受け入れてしまいます。自分を大切にすることも大切に思えることもできません。

こんな卑屈な心を変えたいです。私には正常な自尊心というものがないように思われます。

原因はきっと生まれた頃からずっと家族や親戚に肉体的には殴られ精神的にはありとあらゆる言葉で人間性を踏みにじられてきたので、他人にそういう目にあわされても当然だと刷り込まれているんだと思います。
自分はそういう風に扱われても当然なんだと心の深いところに染み付いているんだと
私の心はまるでサーカスで鞭打たれる動物のようです。

しかし、このまま一生生きるのは辛いです。
どうにか卑屈な心を直し、人間としての誇りを取り戻す方法を教えてください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人間はそれをやるからそれをする やっていることしかしていない

なんのこっちゃと思われたかもしれませんが、卑屈の話です。
卑屈の本質は自分DISり。
自分で自分を悪く言う事。
それをしているのです。
自分で自分をけなす。
それをやっているのです。
自分でそれに気づけばいいのです。
自尊心なんちゃらはあるようでないようなもの。
どんなに自尊心があろうが高かろうが、自分DISりをすれば天の山のように高い自尊心がある人でも自分DISりで凹む。
自分が何をしているか。
何が自分を苦しめているか。
誰がそれをやっているか。
全部答えは一つです。
それを明らめるまで自分を見つめることです。そして、やらなくなること。
だって、やってる人はあなたの中ではあなたしかいないでしょう。
やっている時しか苦しくないでしょう。全部、自分が作り上げているのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答有難うございました。
言われたことをずっと考えておりましたのでお礼が遅れたことをお詫び申し上げます。今もまだ考えております。

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