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仕事のストレスですべてが嫌です

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私は今仕事をしています。マネージャーが変わり、嫌だなっと思う事も結局言いくるめられてしまい、いつも自分が我慢すれば…と思ってしまいます。
まだ、歴が浅いので中々反論もできず悔しい毎日です。
どうしたら楽になりますか?
でも今の仕事は本当に好きです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の立場を持たない。ただ純粋に仕事精神の為に。

どこの会社にも自分と会わん人はいるもんです。
怨憎会苦とも言います。
怨憎会苦は自分と馬が合わん人、そりが合わん人、嫌いな人、苦手な人、憎い人…殺したいほど憎い人などレベルは様々でしょうが、相手を「敵」と思い始める世界の二分割による煩悩です。
脳内事業仕分けが行われて、この人イイ人👼アイツは💀SHINE👿とか思っちゃうのです。※SHINE…星みたいに輝けの意か。
先日、人殺しちゃっていう人から📞電話がありまして💦結構いるんですねぇ殺人犯。
ですが、その人はその事で病んでおられました。
自分のエゴで相手にイラついて、自分のエゴで殺して、結局殺したことを悔やんでいる。
反省もへったくれもなかったです。
つまり、憎んでヘイトし感情任せで相手を呪って殺したとしても、その呪いエネルギーは結局自分の体内で発生・分泌されちゃうので「決して憎んではいけないよ♡(*'▽')」ということをまず最初に申し上げておきます。
実は怨憎会苦とは、相手が悪い場合もありますが、その相手を憎むその心が自分の中で行われているのですから、そこに目を向ければ苦しみから救われます。
理屈で納得へーなるほど、では心底解決はつきません。
近くのお寺の修行などをして自身に向き合ってみることです。
相手を憎む心はわが心。
イヤだなぁと思う心はわが心。
会社に行きたくないと思うはわが心。
言われたことを思い出すのもわが思い。
悪も言われるかなぁと不安の思いを起こすのもみんな同じ所、同じ一念。
人生はもっと地獄が待ち受けているかもしれません。
自分がこの自分の暴れ馬🐎のような心をおさめることができなければ、仮に白馬の王子様と結婚してもその王子様が理想と違っていた時にまた同じ症状が現れるのです。理想の王子様との間に授かった子供との間にすら悩み・苦しみ・我が子を殺める人もおられるのです。
その位、人間は自分のアタマワールドの中で、勝手な理想ワールドを思い描いては幻滅し、夢を描いては夢に裏切られ凹むものです。だからこそ現実を直視し、わが荒れ狂う心をぺちぺちして本当にシラフマインド=仏心に目覚めるよう、心をおさめる修行=静慮をつとめる必要があります。
自分の心のディスプレイに映し出されたその相手。その相手にいちゃもんつけるあなたは何者か。それが何者かを見極めることですな。
※これを読んで関心を持った方はお寺へGO。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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