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自分が嫌いです

回答数回答 1
有り難し有り難し 10

受験失敗とか色々あって
付き合う約束していた人にはあきれられ。
ほかの友人との関係もうまくいかず。

自分がなにをしたいのか。なにをしているのか。
わからなくなってしまいました。
ここさえ乗り切れば。もっといい人いる。
そんなの言うの簡単じゃないですか
どうしたらいいかわからないんです。
自分が嫌いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本当に優先するべきものを優先していない

人間の苦しみは「誤認」から来るものです。
今のあなたは本当に優先するべことを誤ってしまっているから苦しいのだともいえます。
今日の真新しい朝日と共に迎える現実よりも、「私が」ということを優先させていませんか。
私がこうしたい。
私はこうありたい。
私はこうしたかった。
私はこうでありたかった。
自分の計画やビジョン、こうあればいいなぁという先立てている思い。
それは今日の真新しい誰も見たことのない今日は今日の初日の出なのに「ああ、どうせ。今日も同じ。今日も暗い思いが続いていく。」と思って汚している姿なのです。

実際の今日の真新しい、無色透明の現実「実際」よりも、あなたがあなたの中で優先的に「思ったこと」を採用されてしまっている所があるのです。

自分の行為していることの本質に目を向けてみましょう。
「私が今」それを優先してしまっていたのだ、と。

優先されているものが、現実よりも自分の思ったことになってしまっていることに勇気をもって気づきましょう。

今日の現実より、自分が考えたことが優先されてしまうと人間は苦しいのです。
すると、人間は現実を愛せなくなってしまうのです。
今日の現実が晴れであるのに、雨であることを思い込んでいるようなものです。
ここで言う現実を愛するとは、今日今まさに起こっている現実をちゃんと見て、自分の思考を優先させないことです。

受験がうまくいかなかった。嫌だなぁ。
付き合いたい人とうまくいかない。悲しいなぁ。
友人ともうまくいかない、もう嫌だ。
ほんとうはうまく行きたかった。行くはずだった。
こんなはずじゃなかった。
そう思いたくなるものです。
現実は冷たいまでに私たちの思い通りにはなりません。
現実は常に、私たちの思い通りにはなりません。

では、どうすればいいのか。
落ちたら落ちたで、スパッと落ちきることです。
「ああ、落ちた…、だめだ(-_-;)」よりも
「あちゃー、かなしいー、落ちちゃったー。まぁ、次頑張るべ。」と明るく、気持ちを新しい初日の出に向けて明るく明らめることです。
今日は今日の現実があるのですから、そちらを優先させずに今日は今日の真新しい初日の出DAYの方を優先して生きるべきなのです。
記憶はすでに脳内データです。
あなたの脳は今日の新しい世界を体感しているのです。
相手にするべきは「そっち」ではないのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。
自分の気づかなかったこと気づかせてもらいました。
今日からもっと元気にやって行きたいと思います

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