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足るを知る、と諦める、の異同

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足るを知る、ということの真意もわかっていないのですが、仮にそれを、今ある周囲の現実に前向きな価値の意味づけをする、というような意味とした場合、それは反面、今周囲の現実にないものを諦める、という意味を有するのか、また、足るを知る、ということは、今の現実以上のより良い未来を目指してもがくことも諦める、ということをも意味するのか、それとも、足るを知る、ということと、諦める、ということは真意において何の重なりも有さないのか。

人生をより良く生きる心構えとして、足るを知る、ということの真意と、諦める、ということとの異同、どこが重なり、どこが重ならないのか、などの考え方を知りたいと思っており、お教えいただければ幸いです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

知足 と 諦め

ソムリエは「タル」を担ぐ人という意味です。
どこにどのワインがあるか、作られてくる過程も知っている。まさに「タル」を知る、です。そのくらいワインに精通しているという事でしょうか。え?違う?そっちじゃない?失礼しました。
ジャズギタリストの「タル・ファーロウ」。スゴイ人です。「TAL」は名盤、全曲名演です。その人は思ったことがフレーズ・メロディーになっちゃうくらい人生と音とがリンクしていたそうです。チキン南蛮に欠かせないのはタルタルソースです。
昔、三茶の駅前にあった「めしや丼」でチキン南蛮丼を友達に教えてもらって食べた時、あまりのおいしさに目玉とほっぺと目玉が落ちて丹下ダンペイになりました。(*◉Д●)
美味しいからって食べ過ぎるとブーデーになるので足ることを知るって大事ですね。
あと、昔マンガで「まじかる☆タルるートくん」という漫画がありましたが、その中でも足るを知るという事が説かれてます。江川達也さんは頭がいいですねぇ。
総じて、足るを知るとは今頂いていることで十分であるという事として説かれていることが多いですが、道元禅師はそうではないと別の視点で説かれています。
この身心がものごとを受取するに限りをもってなされていること。これが足るを知るという事であると。うーん、深い。
物事を受け取る時に、その事以外が起こらないこと。
思考や余分なものが起こらないのです。
前フリのボケを読んで、笑える人と「おいおいそうじゃねーだろが」っていう思考が割り込まれる人との違いがあったと思います。そのままに受け取れる人は知足が行われている方です。要らんツッコミが入る人は「別のもの(思考)」が割り込まれるのです。
本来の知足というのは道徳ではなく「仏法・悟りの内容」として説かれたもの。
人間の知覚・感受はそれを受け取った時、限定的に行われていて、それ以外のことが起こらないという事なのです。
「諦める」という事は、もう字数が足りないのでボケませんが、法を明かにするという事です。
仏法の道理・仏法の内容を知識ではなく体感として、脳に刻まれるが如くにハッキリすること。
仏教の辞書や知識なら誰でも読めます。
ですが、その道理がきちんと明らめられないと生老病死などの苦しみから解き放たれないものです。苦しみから解放され、仏法が明らかになること。それが法を諦めるという事です。諦めずに諦めてください。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

諦めとは
「諦め観る」
「あきらかに観る」
こう仏教では捉えます

先入観や固定観念が無い
個人的思考を超えて
宇宙的尺度で
物事の本質を観る事が
これが諦めの大意

仏教ではまさに奥義ですね^_^

一般的意味は敢えて述べませんが
足るを知るは
尽きる事の無い欲への戒めと捉えます
具体的には「自分はもう足りている」と自分で自分の欲に句読点を打つこととも捉えています
「欲は己でコントロール出来るんだよ」という賢者の息吹が感じられる言葉です

どちらも仏を目指す者達にとって
大事な言葉ですね

朝から良い言葉と向き合わせて頂きました

ありがとうございます

合掌

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山形のそれは小さなお寺の住職です。 私は子供の頃いじめられ、社会からドロップアウトするなど金銭的にも苦しみ多面的な貧困を経験。 それらを乗り越えた事は、今では自身を照らす灯り。 色んな社会的活動をしてますが、 自然の中で遊ぶことが大好きで、子供達に体験活動やイベント、木工教室などを催しております。 お寺では草花葬墓地などの永代供養も宗派問わずお迎えしております。

無理をしない

どうせ人生は、できることしかできません。
だから、できることをできる範囲でやればよい。
それは、自分にも他人にも、自然などにもあてはめられます。
夏に向かって「寒くなれ」と言っても、夏は暑いのです。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

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