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批判コメント

回答数回答 1
有り難し有り難し 35

ネット上で、よくコメントを書きます。
誹謗中傷ではなく、自分の考えを書いているだけなのですが、否定的な意見を書くと、なんとなく良くないことが身内にに降りかかる気がします。

悪口は帰ってくるとはいいますが、悪口ではなく、なにかニュースに対してのコメントや、考えをたてる、スレです。

気になるなら、もう止めればいいことではありますが。

意見をし合うは、よくないのか、また私に直接ではなく、なにかが身内にいってしまうと感じるのですが、それはどうしてかを仏教的に教えてください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

天に唾スレば…

あなたに守るものがあって、それが失われたくないからご身内に向かうと思うのでしょう。
あなたがコメントする内容に救いの方向性が無いからスッキリ解決しないのかもしれません。
コメントや意見を言うという事は向かうべき方向性、導かれゆくべき方向性を現場のにんげにゃ当事者以上に持っていないのであれば、野次馬心理で思ったことを言っているだけなので、それを言われた相手がどうなるか。相手であってもこちらと同じ人間だから悪く言ったり、救いようの無い事を言っても言った本人がモヤモヤするのは自明の理。

全てがあなたのという部屋の中で行われているのです。悪口というガスを吐けば室内が曇る。
自ら苦しむ。
愛があって導き先があれば悪口ではなく向かわせる方向を持って行く。
あなた自身もそこが明確になっていないままに発言やコメントをしてしまうとその向かい先の無い負のエネルギーで自爆・自縛するのでしょう。
だから仏教においては
不妄語戒(偽りの言葉を用いない)
不自賛他毀戒(他者をそしらない・自画自賛しない)
不謗三宝戒(仏法や自己の本心を謗るようなことをしない)という戒めがあります。
天に唾すれば自分にかえるというより、自己という身心は自分のやったことが全部身心に影響するのですから上手に自分を扱えばよいのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼のコメントを書いたつもりが、送信ミスのようです。
ありがとうございました。
心が痛んでしまうネットへのコメントは避けるように心がけます。

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