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浄土真宗の教えについての質問

浄土真宗の教えについて質問があります。

悟りの反対が迷いだとして、迷った時に阿弥陀様のお力を心底信頼し、私は大丈夫なんだ!と思う事ができたら迷いがなくなる。それは最早悟りで極楽である。という理解でよろしいでしょうか?

仮にその様に考えると、悪人正機説で親鸞様が仰りたかった事は、「迷いの多い人の方が南無阿弥陀はよく効きます。」という事で、善良な市民や、悟っているお坊さんを批判したかった訳ではなく、犯罪者を特別庇った訳でもない。という風に考えられます。

ところが、浄土真宗のお坊さんのお話によりますと、「現在、この世は末法の世界のため親鸞様は生きている間に悟られる事はなかった。」とお聞きしました。

そう考えますと、私が今、いくら南無阿弥陀と唱えようとも悟る事はなく、この世では楽にはなれない。苦しいまま。という事にならないでしょうか?

私は阿弥陀様の本願、お力を心底信頼し、南無阿弥陀と唱えた時の心のあり様が悟りで、極楽浄土ではないかと思うのです。

それとも、極楽浄土という別世界が西のどこかにあって、生きている間は苦しいままですが、死後苦しみのない極楽浄土へ行くのでしょうか?

だとしたらそこには何が行くのでしょうか?魂でしょうか?肉体でしょうか?心なのでしょうか?

お手数ですが、回答頂けましたら幸いです。

仏教
有り難し 20
回答 1

質問投稿日: 2019年4月19日 20:13

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

字数オーバーしてしまうので不足であればまたご質問を

ご相談拝読しました。色々こんがらがっていますので字数内で全てには回答しきれません。また、私の回答は浄土宗各派の公式見解ではなく私個人の味わいであることを了解の上でご一読ください。

まず一口に「覚り」といいますが「覚り」とは何かという問題があります。そこでまず仏教の原則として覚りは「言語表現できないものである」ということがあります。したがってそれを何とか言語表現しようとすると必然的に矛盾が生じ、そこを批判しようと思えばできてしまうのです。
それでも最低限言えることとして「覚り」とは「煩悩を滅した状態」と定義したとします。そういう意味では親鸞聖人は「死ぬその瞬間まで私たちは絶えず煩悩に満ち溢れた存在である」とおっしゃっているのでこの私自身が覚るとは言っていません。

では浄土真宗は覚りとは無縁かというとそうではなく、覚った仏である阿弥陀仏とその覚りの世界である浄土があります。

それについて

>極楽浄土という別世界が西のどこかにあって、生きている間は苦しいままですが、死後苦しみのない極楽浄土へ行く

という考えも確かにあります。その考えの場合、往生の主体は

>何が行くのでしょうか?魂でしょうか?肉体でしょうか?心なのでしょうか?

という問いが当然生じますが、それは凡夫が考える必要はないとして退けられる問いとして扱われるのではないかと思います。

なお、私自身はこの理解については現代の科学的見地や大乗仏典成立の背景から鑑みても否定的です。

浄土や阿弥陀仏は「指方立相」の方便(さとりに導く手立て)であるという考えがあります。
「指方立相」とは自分の力で覚ることができない凡夫のために仮に「(西方極楽浄土という)方向を指し示し、(阿弥陀仏という)相(すがた)を立てる」というものです。

この考えの場合は「阿弥陀仏の本願力により死後に極楽浄土に往生するという教え」によって「今」、「(私が覚るのでなく)覚りの世界に触れさせていただく」ということになります。

この「覚りの世界に触れさせていただく」の具体的な相が「南無阿弥陀仏」のお念仏です。御念仏を申すところに阿弥陀仏の願いを聞き、智慧がはたらくことを感得する。

それは私自身が「まこと」になるのでなく「念仏のみぞまこと(歎異抄)」であるという感得により「まことならざる私」が明らかになるという形での覚りとの接触です。

3ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

吉武文法様
ご丁寧な回答ありがとうございます。
まだよく理解できませんでしたので、もう少し考えてから、また質問させて頂きます。

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