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死にたい死にたい

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もう何もかも嫌です死にたい


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

もっとより良く生きたい より良く生きたいと念ずるのです

人生お疲れ様でした。
まずは、アタシの人生終わったーと軽く笑いながら言ってみましょう。
続いて、人生終わったと検索してみましょう。
自分で人生終わっちまったという人たちがものすごくポジティブに動画を上げているのです。
うちの子供が小2なのですが、ネットにハマって「人生終わった~♪」とかいうyoutuberが歌っている歌をよく聴いてウケているのです。小2で人生終わったとか歌ってるんス。
なんていう曲かわかりませんが、見つかったら追伸します。

さて、人生は終わったと思っても、口にしても、絶対終わったと断定してもこの体って生きているんすよ。あなたのお子さんもそう。みんな生きているんです。
生きるっていう動詞は「生きるぞ」ってこと、要らんのです。
生きてくれているのです。
いつの頃か私たちは自分自身の主人公を乗っ取っちまった時期があるらしいッスヨ。
たとえば今日、寝るときに感じて欲しいんですが、今でもいいですけど、息してるのっていつの間にか吸った息が吐く息に変わってしまうんです。
その中間時点を感じてみてください。誰がやってんだろう。
死ぬのは割と簡単で、この一呼吸ですらどちらかが止まってしまったらしんぢゃうんです。とても苦しいですが。
自分の経験ですが、自分のコイツのアタシアタシ思っているこの体って、本当は風俗で働こうが見知らぬ人の子供を宿そうが、とっても清らかなものなんですよ。
命の本体って、人間の思いのペイントが何を塗っても効果なし。どんだけDISってもそれは人間の戯れ言なんです。だって、これがアタシだアタシだって思っている間だって、ホラ、息を吸ったり吐いたり切り替わっているのは誰がおしえてくれたのでしょうか。
それって、気づいてみてほしいんですけど、あなたがアタシだと思っているアタシじゃない所なのです。脳の働きは盛んだから今考え事をしているアタマと、どこか一部分をこれがアタシとか勘違いしちゃうんですけど、それって本当は自分が何かを想っただけ。自分がDISりの一念を思い起こしただけ。
本当の言葉って、本当の自分って、アタシがそう思った思えたっていう所ではない場所にアドレスがある。
人間の命のアドレスは考えのワールドではなく、このさっきから意志なしで息をしてくれているところにあるんです。そことシンクロしてみてください。困った時はいつでもご連絡を。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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