先進国で消費社会を生きていくという、業
私は日本の都会の街のベッドタウンに住んでいます。
電化製品もプラスチックも普通に使う、ごく一般的な先進国の生活だと思います。
仕事は、電化製品にまつわる仕事です。
文明に乗っかってのうのうと生きています。ここでネットで質問が出来るのも、その証拠でしょう。
しかし、そのことにたまに吐き気を覚えるのです。
(反吐が出る・怒りを覚えるというよりは、このままで良いのかと申し訳なくて胃が痛むといいますか……些か蛇足ですが、現在進行形で考え過ぎでお腹を下しております)
食べ物を食べれば家畜の福祉問題が気になり、買い物をすればプラスチックの廃棄物問題やらレアメタルにまつわる紛争やらが気になり……。普通に日本で生きていて何か大量消費社会の歪み、社会問題に関係しないことがあるのでしょうか。
かといって、私は環境問題の活動家になりたいわけでも、自給自足で生きていきたいわけでもないのです。病気や障害を持った人など、現代の社会であるから生きられるような人もたくさんいるでしょうし、文明が発達し教育が行き届いているからこそ、女性である私が自由な生活を手にできるのでしょうし。
現代文明の有り難みも罪も、両方ある程度承知しております。
もっとあけすけに言うのなら、そういうことをさして気にせずに、このまま文明社会で無知に能天気に生きていきたいのです。せいぜいスーパーの袋を断って、物を大切にするくらいで、楽しく生きていきたいのです。
お坊様は、この消費社会・現代文明で生きていくということの業……といいますか……について、どう考えられますでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「茹でガエルになりそうな自分」を見つめる
聞いたことがあるかと思いますが、「茹でガエルの法則」と呼ばれる学説・教訓(?)があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B9%E3%81%A7%E3%82%AC%E3%82%A8%E3%83%AB
このウイキペデイアの記事にも「法則」の問題点が指摘され、ネットでこの法則を検索すれば「この法則は嘘である。」という異論も多数出ているようです。でも、「人は易きに流れる」ということへの教訓・警鐘としてこの法則を受け留めた方が良いと私は考えています。
私は東北地方に住んでますから、結構寒い冬の日々を過ごしております。でも、生まれ育った実家は更に寒冷な場所でした。それ故、現在の場所に住むようになった頃は、同じ東北でもここは温暖だなあと思い、「今日は寒いねえ。」なんて言っている人を「これくらいで寒いって言うなんて。」と思ってました。でも、今はその温暖さに慣れ、より寒冷な気候への耐性が失われてしまいました。
地球温暖化で影響でしょうか、夏の暑さが年々強まっています。エアコンを使う時間が
増え、電気の消費量を増えています。これも「茹でガエル現象」の一つだと思います。カエルは茹で上がる前に逃げ出すようですが、私らは茹で上がってしまうのかも。
「易きに流れてしまう」自分のお弱さを自覚することが、大事だと思います。自分の弱さを自覚しても、現実には易きに流れ、怠惰な日々を送る場合も多いでしょう。だからこそ、今生きていることを神仏に感謝し、至らぬ身である自分を神仏に懺悔(さんげ)するのです。そのための場所として菩提寺があります。自宅には仏壇があるのです。
ヒトも自然環境の一部
ヒトも自然環境の一部ではないでしょうか。
ですから、ヒトが地球環境に変化をもたらすことも、地球上の環境の変化の一部であり、「環境破壊」と騒いでいるのは人間だけかもしれません。
プラスチックごみで迷惑を被る生き物がいるのは事実ですが、一方で、プラスチック原料である石油は過去の生き物の死骸ですよね。
ビニール製の財布かワニ革や牛革のカバンか、ワニさんや牛さんにとってはビニール製のカバンが流行る方が助かるかもしれません。
多くの恐竜が滅んだ(一部の恐竜は鳥となって生き残った)ように、いずれヒトも滅ぶでしょう。
環境は無常ですから。
私達は、悩み苦しみの原因となる煩悩に気をつけながら、できることをできる範囲でやれば良いのです。
世俗のルールはどんどん変わります。
柔軟に対応していけば良いと思います。
怒りはストレスにつながる煩悩です。
環境問題という正義が理由であっても、怒るのは悪の感情なのです。
怠け心も煩悩です。
プラスチックごみを分別してリサイクルにまわすのは面倒臭い作業です。
怠けの煩悩が全くない仏様や菩薩様なら、ミリ単位の細かいごみまで分別作業を怠らないかもしれません。
私達には怠けの煩悩があるので、ついつい手抜きして燃えるゴミと一緒に捨ててしまいますね。
そのように、仏教的には、感情(煩悩)に着目して生活した方が良いように思います。
「出離心」と「菩提心」
せろふぁん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
誠にこの世は、悪業を積むためにあるのではないだろうか、と思いたくなるほどであります。
もちろん、実際にそうなのであります。
輪廻世界にあるということは、迷い苦しむ中ということであり、早くこのような輪廻から抜け出たいと思う心が「出離心」と申しまして、輪廻を厭い、仏道へ向かうまさに第一歩となる心でございます。
また、「出離心」から周りを見れば、そんな輪廻の中で自分と同じように一様に迷い苦しんでいるありようがございます。
自分も含めて、皆の迷い苦しみ様を何とかしてあげたい、皆を救って参りたいとして、そのための法を求めるべくして起こす心が「菩提心」というものとなります。
この輪廻から皆を救うための法を釈尊がお説き示されておられます。
是非、ここより仏教へとより関心を持って学び修していって頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
願誉浄史様、吉田俊英様、ご回答ありがとうございます。
根底は同じながらも対照的な回答を頂戴致しまして、かつどちらも腑に落ちると申しますか、有り難いお言葉だと感じました。願誉浄史様のお言葉は私にとって救いだと感じましたし、吉田俊英様のお言葉には引き締められる気持ちでございます。
頂いた言葉を大切に、手を動かし頭を使って自分なりの在り方を探していきたいと思います。
川口英俊様、ご回答ありがとうございます。
人間の悪行を仏教的な観点から捉えたお話、興味深く拝読致しました。私は篤く仏教を信仰しているわけではないのですが、お釈迦様がどのような道を示されたのか、少し興味が湧いてきました。仏教について学ぶいいご縁かもしれません。改めて、ありがとうございます。