「老」とどのように向き合っていらっしゃるのでしょうか。
当方、癌治療の影響もあると思うのですが、年々体のあちこちが痛み、また疲れやすく、疲れがとれにくくなりました。、
ここ最近は、とみに老化を感じ、次第に不自由になる体に「苦」を感じています。
中年期・高年期のお坊様は、どのように心の中でご自分の「老」と折り合いつけるといいますか、向き合われていらっしゃるのでしょうか。
参考にしたく、お伺いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
出来ることを精いっぱい勤めよう
抗がん剤治療を続けれ居られるのですね。病気と副作用、両方で苦しいことと思います。心よりお見舞い申し上げます。
私は今月で64歳になります。幸い「余命宣告」に関わる病気には罹ってはいません。しかし、年齢相応に成人病の薬を服用する日々を10年ぐらい前から続けております。かかりつけの医者から「高血圧の怖さ」を脅かされ、さらに「もっと薬を飲め、もっと薬を増やしましょう。」というプレッシャーを診察の度ごとに受けております。同年代の中高年のお歴々もほぼ同様の日々を送られていることと存じます。
老眼は年々進み、眼鏡を2年おきに新調せざるを得ません。膝も腰も幸い慢性的な痛みはありません。しかし、ここ10年で何度かひどい腰痛や関節痛に悩まされました。整骨院通いの日々を送り、金も飛んでいきました。この先、もっと長生きできたとしても何らかな癌に罹り、治療への不安死への不安を抱えながらの日送りをするでしょう。この先に希望を持てるかどうか、不安に駆られます。不安を抱え、生きる希望が狭まっていく中でも、必ず出来ることはあります。若い時、元気な時と同じように行動したいと思っても、思うようにはなりません。思うようにならない体になっても、何か出来ることは有る筈です。
病気のせいで出来なくなったことは沢山有ると思います。でも、例え病気の身であっても、出来ることは必ずあります。「病気のせいで家族や周囲に迷惑をかけている。」と落ち込みたくなることが有ると思います。でも、病身だからこそ健康の有難みを周囲に伝えられると思います。体が動かせなくなっても、家族や周囲の方々へ感謝の言葉や思いやりの言葉を伝えることは出来ます。残された人生が限られているからこそ、伝えるべき言葉があります。伝えられる言葉があります。
病に苦しむ姿を格好良いものでは有りません。でも、格好悪い姿をみせることも、家族への大いなる教訓となると思います。七転八倒してもがく姿は、その人だけのものでは有りません。お墓に眠る御先祖様が通ってきた道です。今、あなたが通ろうとしている道です。いずれkuniさんの御家族も通る道なのです。辛く苦しい日々が続くかもしれません。でも、一生懸命生きてる姿を家族に見せることが、ご家族が今後の人生を生きる糧となりますよ。苦しくたって、生きることの意味はあるんです。
苦はどんな場面にもある
諸行無常ですから、私達は老いから逃れられませんね、
ただ、老いに限らず、私達が生きていれば必ず苦はあるのです。
トイレに行きたいのも苦、トイレに行ったらいつまでもトイレにいたくない、今度はトイレから出たいのも苦。
息を吸えば、次は吐きたいという苦。
息を吐けば、次は吸いたいという苦。
お腹が空けば食べたいという苦。
食べ続ければ、もう食べたくないという苦。
起きていれば寝たい、寝ていれば起きたい苦。
こっちの苦が大きくなれば、別の状況に移る、しかし移った先もまた苦。
苦から苦へサーフィンして動きまわっているのが、生きるということです。
ですから、老いの苦だけにとらわれず、あっちもこっちもぜーんぶ始めから苦ばかりだったと気付くようにしましょう。
初めて苦に直面するわけじゃない、今まで出会ってきた苦と同じだ、と。
質問者からのお礼
吉田俊英さま
いたわりと激励のお言葉をありがとうございます。
若い頃に比べると、ずいぶん制限された生活を送っておりますが、代わりにあの頃にはわからなかったことが、わかるようになってきました。それも生かしながら、少しずつでも人生を歩いていこうと思います。
願誉浄史さま
お言葉をありがとうございます。
生老病死、すべてが苦といいますね。いままでいろいろな苦がありました。しかし、いろいろな喜びもありました。新しい土地に出向くなどの喜び、また趣味の喜びから遠ざかり、いかんともしがたい空虚が度々心を支配します。
その上で、私自身の人生を独自に歩いていかなければならないということですね。