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将来の選択

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はじめまして、自分の将来が見えなくてご相談させていただきます。

現在とある営業職に就いているのですが、自分のやりたいことのために退職することを検討しています。
もともとやりたいことがあったのですが、適当に理由をつけて諦めて今の仕事をしています。
どうせならキツい仕事をして成長できる仕事をしようと思って今の会社に入社しました。
入社してみると予想通りかなり辛いことも多いです。
でも、今の仕事が嫌とか辛いとかそういうことが理由で辞めたいわけではなく、元々やりたかったことへの気持ちが強くなり、挑戦してみたいと思うようになったのが理由です。
まだ入社して1年ちょっとしか経ってなく、まだ成長しきったとも言えません。
ただやりたいことが他にありながら、続けることで時間を無駄にしているような感覚になったり、申し訳なく感じています。
自分の人生を優先したいのですが、上司もとてもいい人達で、辞めると言うことに抵抗もかなりあり、申し訳なく思います。

正解が無いのはわかっていますが、考えれば考えるほど悩んでしまいます。
目標の貯金額に達したら、辞めてもいいと考えてしますが、今の調子で行くとあと3カ月ほどで達成できます。
貯金出来ても、まだ成長できる余地はあるので、それをゴールにするか、時間を優先すべきが迷っています。
どうしたらいいでしょうか?
今辞めるのは甘えですか?
世間を甘くみてますか?
教えてください。

文章が下手で申し訳ないですが、お答え頂けると助かります。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本心が答え

自分の本心だけはいくら会社の人がイイ人であろうとも変えられません。
自分の本心に忠実に生きることです。
甘いとか、何とかよりも今自分がそれをしたいのであれば、その意識を頼りにまっすぐ進むことです。
それが逃げ・逃避でなければ今度はそっちの気持ちをどんどん燃やして、そっちで成功するべきです。
ただし、気をつけなければいけないことがあります。
あなたがその会社に入る前にあなたが想像していたことと現実が違っていたという事。
そこに答えがある。
あなたはここで会社を辞めてこっちで飛躍したいと思っている。
すると実際にやってみるとまた現実は違うという事を思い知るでしょう。
その時あなたは同じことを思うのではないでしょうか。
つまり、あなたの問題は何をするにせよ、自分が今相手にしているワールドはあなたの思ったこと=頭の中で想像している世界であって、現実の実際では無い事を相手にしているのです。
そういう自分の相手にしている世界が真実ならざるものである場合、必ずまた同じ目に合うでしょう。自分では相手を見ているようでも本当は自分の頭の中の相手をみていたというような経験があるでしょう。
世界を眺める時、あなたが相手にしているのは自身の思考なのです。
禅・坐禅はその混同が無くなる。
脳の向かう先が思考では無く事実になる。
思考は自分流の価値や色、好き嫌いをつける。
坐禅の眺めは、人間の思考に染まる前の真実に目が開く。
人が坐禅をする「必要」があるのはそういうところなのです。
坐禅とはお釈迦さまや仏教者たちがやった「厳しい修行」ではなく、人間が誰でもやるべき行なのです。事実を誤認しないためにも禅定マインドをマスターすることです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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