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念仏者は「定義上」菩薩なのでしょうか

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この愚かな疑念を教義的に論破してくださると助かります

1親鸞聖人は「信巻」等において、菩提心について自力と他力を分判し、如来回向の信心は願作仏心(自利)、度衆生心(利他)の徳をもつ他力の大菩提心であるとあらわされた。

2菩薩の定義:仏の次の位のもの。みずから菩提(ぼだい)を求める一方、衆生(しゅじょう)を導き、仏道を成就させようとする行者(ぎょうじゃ)。菩提薩埵(ぼだいさった)。

信心があるものは自利も利他も菩提心もある
よって菩薩である
菩薩であるならば、41願により諸根が具足するはずである
よって諸根の具足していないものは極楽へ往生できない

2019年5月10日 19:15

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

【追記・再追記あり】仏教は実体論ではない

う~ん、どうも実体的な理解から離れられないのですね。

浄土真宗において信心は「私の心」ではありません。如来回向(他力)の信心です。

どこまでいっても私の心は虚仮不実で清浄ではありません。その私の心に如来の清浄なる心は回向され、はたらきとして成就するのです。

なので信心には願作仏心(自利)、度衆生心(利他)の徳があると解釈できると思いますが、それはあくまでも如来の心です。それが私の心にはたらく(影響する・響く)ということであって、なので私が実体として菩薩になるというよりは、菩薩(と等しいもの)に見出されるというのが信心ではないでしょうか。

それからこれは何度も繰り返しになりますが、そもそも41願による諸根の具足というのも実体論(課題にされている障碍云々)ではないでしょう。

障碍の有無と諸根の具足、極楽の往生は関係がないでしょう。障碍があっても諸根は具足するし極楽往生もできます。それが如来より賜りたる信心でしょう。

往生も諸根具足も信心もあなたの心を離れてはありません。

南無阿弥陀仏

【追記】
おしゃるとおり縁起の教えが仏教です。なにか固定的実体的なコト・モノがあるわけではありません。
障碍を障碍・諸根の不具足として見ているは誰でしょうか?のちさんですね。私はそうはみていません。つまり障碍は誰にでも固定・実体的な事実ではありません。ましてやそれが「良い」「悪い」と分別するのはその人でしかありません。釈尊はどうみるでしょうかね。考えてみてください。
なお、私は現実問題としての障碍を軽視するわけではありません。本当にご苦労されたり辛い思いをされるているのだと思います。
しかし、障碍が「悪い」とか「劣っている」とか「諸根の不具足」として見る人がいるとするならばそれはその人のその時の縁により起こった見解でしょう。

【再追記】
香月院深励師の解釈に依ると41~48願の「他方国土の諸菩薩衆」とは十住以上の菩薩(聖者)と解釈されますね。しかしだからといって関係ないということでなく、浄土往生を願うのではない聖道の菩薩にまで願われているのだから、当然願生者にも願われている内容であるとも読むこともできるでしょう。
また、ここでの「菩薩」と、親鸞聖人が念仏者を「菩薩」として見出す場合のそれとは意味が異なるかもしれませんね。その文脈における「菩薩」を読み取ることは大事ですね。

2019年5月11日 22:03
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はじめまして。 北海道の道南地区にある若松という農村のお寺に所属しており...

四十二願以降を見れば

第42願以降の願も、菩薩に関する内容です。
他の国の菩薩が阿弥陀仏の名を聞けば、三昧に入れるという内容もあります。
ということは、少なくとも無量寿経で言う「菩薩」は、念仏を聞いただけで三昧(禅定)に入れるレベルの人を指しているのではないでしょうか?

お坊さんのリップサービスとしては、戒を受けた信者さんに「これで今日から皆さんも菩薩の仲間入りです」とか言う可能性はあります。
しかし、たとえば浄土宗でお坊さんが授かる戒は円頓菩薩戒ですが、そのような菩薩としての戒(菩薩になるための戒)を授かったからといって、経典に出てくるような一人前の菩薩様にすぐなれるわけではないでしょう。
ただし、念仏往生すれば不退転の境地になれるわけで、修行のレベルダウンはしないということですから、いずれは必ず立派な菩薩、さらには仏の仲間入りができるのです。

回答としては、念仏者は浄土で立派な菩薩になれるので、「もう菩薩の仲間入りしている」と言えるが、この世ですぐにお経に登場するような菩薩になれるとは限らない、ということではないでしょうか。

補足ですが、すぐに立派な菩薩になれないから信心が足りないのだとか、そういうことではないと思います。
はるか昔からの輪廻転生の中でさまざまな功徳を積んできた人でなければ、簡単には立派な菩薩にはなれないでしょう。

2019年5月12日 9:00
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浄土宗教師。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための...

質問者からのお礼

吉武文法さん、毎回真摯にご回答くださって本当に感謝します

仏教は実体論ではないということが僕の弱いおつむには難しいんです

実体論ではなく、縁起論だということでしょうか?その場合障害はどうなるんでしょうか?

吉武文法さん、追記ありがとうございます。常識からみるのではなくて、仏法の側から見るのが大事なのですね

願誉浄史さん、論理的な解説、ありがとうございます
香月院深励師の文章を読んでいると、「本願の中に菩薩とあるはみな十住以上の聖者のことなり。これは前後の願文を分けて見るべし。」と書いてありました。やはり他方国土の諸菩薩衆という41~48願は、十住以上の菩薩(聖者)のための願という理解でよろしいでしょうか

「念仏について」問答一覧

禅と念仏

こんにちは。僕はこれまで様々な道(生き方)を求めて、真宗の教えを求道中だったのですが、はっきり言ってこれまでやってきたことは偽りに過ぎなかったと思い始めました。僕は真宗(本願寺派)において信心をいただきましたが、結局疑いは消えないようです。疑いあるままの救いのようですが、どうも僕にはそれが耐えられないようです。とにかく苦しくて仕方ない。 一方、真宗大谷派の方はもとより疑うべき考え方がないので、とても気が楽になり、最終的には「事実のみが救い」だと最近学びました。 真宗大谷派が最善だと思っていたのですが、僕は精神統一をしなければとても精神が不安定になることもあり、どうせなら座禅の方が良いのではないかと考えています。 これは僕の勉強不足かもしれませんが、座禅と念仏の教えは確実に繋がっているところがあるように思うのです。座禅の教えは自力だと言われていますが、僕はそうは思わず、考え方の問題だと思います。念仏だって自分の意思で間違いなく念仏申しますが、考え方としては「阿弥陀仏の力によって念仏させられる」と考え、禅宗でも「座禅が座禅をするのだ」と言っている人もいます。それに、「座禅は悟りを開くことが目的ではなく、座禅そのものが目的」だと聞きました。 他にも禅で言う大悟も、念仏の信心と似てるというか、もう一緒ですよね。「妙好人」の著書で知られる、鈴木大拙先生も念仏の教えと座禅の教えを比べながら大悟を解説していますし、大悟したと言われる一休禅師も煩悩が消えているわけではない。実際にはどういう境地なのかは分かりませんが、おそらく「仏の眼」によって煩悩あるがままでも力強く生きることができたのではないかと理解しています。 これらの事から、僕は禅の道を歩もうと考えています。 念仏の教えと座禅の教えは、ほぼ同じようなものだと考えている僕ですが、実際はどうなのかが知りたいです。よく吟味しながら求道しようと思っていますので、遠慮なく厳しいお言葉でも構いませんので、念仏と座禅の関係性、大悟や信心の類時点や相違点を教えていただけると有難いです。

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 いつもお世話になっております。  まず、質問に先立ちまして御礼とお詫びを申し上げます。  この件に大変尽力してくださった、先生方。ありがとうございます。 そして、大変申し訳ございませんでした。  お念仏は続けていますが、あれから菩提寺を含め、浄土系の寺院には お参りが途絶えている状況です。  私自身、自分の信じていた宗の精舎がすさんでいくのを見るのが とてもつらかったのです。私では、止めようがありません。  詳細を説明すると、 ・お坊さん(布教師)の言うことがちょっとおかしい  →他宗の行をけなしたり、念仏以外の行を積むと地獄へ行くなどと平然と  言い放つ、他の仏様をけなす。   「なむあみだぶつ以外は邪教!!」「本山が喧嘩しあってる」 「平等とは何だ」など、不安を煽るようなことを平気で言う。   結果、信徒の9割がその影響を受けて変な方に考えが行ってしまった。  とにかく、私はつらかったです。悲しかった。顔で笑っていても、 腹の底で悲しむ私の姿を、お母さんー阿弥陀様に見せたくない、 そう思って、門から出ました。  本当の念仏とは何?この数年間私は考えました。恋しい「親様」のために。  「苦行に費やす時間を、目の前の苦しむ人たちのために。 来たるべきその後の時は、仏様が確実に手を引いて導いてくれる」  他の神仏の悪口なんか言っちゃいないし、好き勝手どころか、むしろ、 「良心」を前提で動く私たちの背中を優しく見守ってくれる。 「ドジ踏んだって怒らないから安心しな」と。  本当の念仏行って、なんなんでしょうか?

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