ご先祖様や仏様に愛されるには…
初めて質問致します。
よく先祖供養やご祈祷などで「ご先祖様にお願いします」「仏様にお願いします」と言いますが 私の供養をご先祖様は受け取り
私のお願いを 仏様は本当に聞いて下さっているのだろうか…と思います。
と いうのも私は 生前の両親とは 仲はあまり良くなかったし、怒られていた記憶しかありません。
そんな私がお彼岸やお盆などに「先祖供養」しても その思いは亡くなった両親やご先祖様は受け取って下さっているのかどうか、気になります。
否、多分私が本当に真心込めて供養したとしても 「何を今更 ゴマすっているんだ?」と嫌がっているように思います。
仏様へのご祈祷でも 穂特様側から見れば
「はぁ?お前 普段 信心も何もしてないくせに”ご利益を下さい”なんて
図々しいにも程がある!」と思っていらっしゃっるのではないかと思い
ご祈祷をためらってしまった事もあります。
やはり ご先祖様や仏様から見守って頂き またお願いなどを聞いてもらうには お坊さん方のように 欲を断ち切り善行を行うしか 他に方法は無いのでしょうか?
例え純粋な思いで供養しても ご先祖様から疎んじられ
純粋な気持ちでご祈祷をお願いしても 仏様に門前払いされてるような気がしてなりません。
やはり お坊さんのような修行をしないと 仏様はご利益を与えて下さらないし、両親や親戚縁者と 仲が悪かったら どんなに供養しても受け取ってもらえない…と思うと悲しくなります。
警備員を15年以上やっております。 仏教のみならず、宗教や古の教えなどに興味があります。 お調子者ではありますが宜しくお願い致します。
友達が多いはずなのに ふと孤独を感じる
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仏のまなざしを以て、仏の世界を見る
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例え純粋な思いで供養しても ご先祖様から疎んじられ
純粋な気持ちでご祈祷をお願いしても 仏様に門前払いされてるような気がしてなりません。
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仏様を貶めるような言い方はあまり感心しませんね。「多分私が本当に真心込めて供養したとしても 」と言っている時点で既に、「気持ちがグラグラ」「心がふらふら」な状態ですね、自分が本気になって読経礼拝すれば、自分の真心は仏様にもご先祖様にも届く、と信じて勤めることです。
仏様の世界に行っているなら、ご先祖様はあなたを疎んじたりはしません。仏様が門前払いをすることなんてありません。参拝しても先祖供養しても、あなたの心が中途半端だから、そう思えてくるのだと思います。
曹洞宗では「威儀即仏法 作法是宗旨」という言葉が修行の中でよく言われております。型を学び、型を身に付けることから、日々の生活も修行もきちんとしたものになり、我々の道心も堅固なものになっていくのです。まずは、ひたすら読経礼拝に励んできてください。
佛とは寛大であり計り知れない慈悲の心
阿弥陀如来はこのようにおっしゃっております
「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」
これがどういう意味かと解説しますと
「私が佛になったならば、あらゆる善人も悪人も、智者も愚者も、みな一様にお浄土へ生まれることでしょう、ただし五逆と正法を誹謗する人は重罪であり、無信であるから除く」
という意味になりますが、その重罪であり無信であるから除くと言いつつも、「あらゆる善人も悪人もみな一様に」とおっしゃっているので、遅かれ早かれそういう人もみな救われるわけです。
それほどの寛大な慈悲の心を持っている仏様です
貴方が普段信心を持っていなかったとしても「何ゴマすっとんねん、お前の言うことなんか知らんわ」とも言いませんし「自分ちょっと図々しいんちゃうか、都合ええときだけ頼ってくるんちゃうぞコラ」とも言いません。
では信心を持ってなくても救われるなら念仏称えなくていいじゃん、お寺も行く必要無いじゃん、ともなりますがそれは違います
確かに救われます、では何故念仏をするのか、合掌するのか、お勤めをするのか
それだけ寛容な慈悲の心で救ってくださるのですから感謝の心としてお念仏をするんです
阿弥陀様は別に見返りなんて求めてはおりません、私たちが勝手にするんです、心の想いのままただ一心にありがとうございます、との気持ちを込めてお念仏するんです
仏様は娑婆でいかに過ごしたかで往生にかかる時間は割り振られますが、決して利益を与えないことはないし受け取らないこともありません。
修行のするしないはそこには関係ありません、ご安心ください。
供養する気持ちが自分の修行になる
仏様はともかく、ご先祖が本当に私達の読経を聞いてくださっているのか、私達の善行を見てくださっているのかは、わかりません。
しかし、仏様やご先祖に私達の立派な姿を見せるのが修行になるのです。
善いことをすればするほど善い心になる。
善いことを考えれば考えるほど善い心になる。
善い心になれば、悩み苦しみの原因である煩悩が弱まるので、悩み苦しみが減るのです。
で、もしも、ご先祖が私達の善い行いを見ていたら、ご先祖もそれを見てつられて善いことを考えるわけだから、ご先祖の悩み苦しみも減ることになるのです。
そういう意味で、私達は善いことをして先祖に捧げるのですが、先祖が見てなくても、私達自身の修行であるので、自分の苦悩が減ることにはつながります。
「供養」について
ぞーちゃん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「供養」というのは、字の如く、「供に養う」ということで、有り難く尊い仏法、仏様方と「供」に、また、先に仏の世界、浄土へ赴かれて仏の道を歩まれているご先祖様方とも「供」に、更には、私たちこの世界で過ごしている一切の衆生たちとも「供」に、皆全てが等しく、遍くに、悟り・涅槃へと向けた行いを「養」うということが大切となります。
大上段に構えて、「善行」を、「功徳」を、とあまり気負いなさられることはありません。
仏教を学ばれて、修習なさられていかれる中で、やってはいけないことを慎み、推奨されていることに励むという感じで良いのではないかと存じます。
つまり、簡単には、七仏通誡偈の内容となりますが、悪いことをなさずに、善い行いに勤め励みて、心を浄らかにすることとなります。
どうぞ、これからもご仏縁を大切に、少し上記のことをお留め賜りまして、仏道を歩まれて頂きましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
吉田俊英様
ご回答有難うございます。
回答を頂いて 何度も何度も読み返し 自分に問いかけました。
おっしゃる通り 私は供養する前から また御祈祷をお願いする前から 斜に構え もしくは 結果ばかりを気にして 行動していたのだと思います。
今後は 何事にも全身全霊でぶつかって 悔いを残さないよう頑張っていきます。
目が覚めるような回答を 有難うございました。
翔玄様
ご回答有難うございます。
仏様は 変わらない慈悲の心をお持ちなのに
自分自身の心のもちようで 顔や態度が変わって見えてしまうのですね。
願いを叶えてもらいたいから、
あるいは 救ってもらいたいから 供養したり念仏を唱える訳でなく
感謝の心を持って 供養し また 念仏を唱える…という事に 改めて気がつきました。
本当にご回答 有難うございました。
川口英俊様
ご回答有難うございます。
観音経か般若心経…だったでしょうか?仏教の言葉に「正視=物事を正しく見る」という教えを
聞いたことがあります。(出典が違っていましたらご勘弁願います。)
本心からご先祖様に感謝し、また本心から仏様におすがりしたのならば、先に挙げたような感情は
浮かばないかと思います。
私はご先祖様を、また仏様をも「正しく見」ていなかったのかもしれません。
「供養」の意味をしっかり捉え、日々努力精進していき ご先祖様や仏様に「どうぞ 御照覧下さいませ」
と言えるような日々を送れるよう 頑張りたいと思います。
貴重な時間を使ってご回答下さいまして有難うございました。
願誉浄史様
ご回答有難うございます。
お礼のコメントが遅れまして申し訳ありません。
おっしゃる通り まずは自分から変わるよう
少しずつでも努力していく
脇目も振らず 善行を施すことは 先祖のみならず 自分をも救うことになるのですね。
あれこれ悩む前に 少しでも善行を行い
先祖と自分を救えるよう 努力していこうと思います。
ご回答 有難うございました。