愛する事が出来ません。
自分の事も他人の事も愛する事が出来ません。
愛されているという感覚が解らず、愛されたくて、過剰に環境に適応したり、結果や成果を出して必要な人間になる為に、自分を犠牲にした努力をしてしまいます。
親に愛されて、ありのままで生きている人に嫉妬してしまいます。
私の中に愛がなく、愛されたいから、見返りを求めて行動するので、愛のある人に絶対勝てないという惨めさがあります。
いつも愛情飢餓で苦しいです。
愛を自分の中で育てるため、どうしたらいいのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【気づく】。
僕もできないです。
変な話、愛することが出来る出来ない以前に
愛というものが、僕にはそもそもよく分かりません。
分かってしまったら愛とは呼ばないかなぁ、という気もするから
開き直っていますけれども。。
『私の中に愛がなく、愛されたいから、見返りを求めて行動するので、愛のある人に絶対勝てないという惨めさがあります。』
それはなかなか気になる説明の仕方だなと思いますし、
愛は『個人の中』にあるものと、おっしゃっているのかなとお見受けします。
私は、愛は個人の『中』にあるのではなく
個人と個人の『あいだ』にあるものかな、と最近感じます。
それは大きいものがひとつ、どっかとあるものもあれば
小さいものだけど、たくさんある、とか
様々な愛のかたちが『あいだ』にあるんだろうと思います。
それだったら
愛のかたちはひとつじゃなくてもいいのかな、と。
そう思ったら、気が軽くなったように感じました。
ですから
自分の中に育てるのではなく、『あいだ』にある愛を見つけるつもりで
考えてみてはいかがでしょうか。
大げさなものをいきなり『あいだ』にこしらえるのではなく
普段何気なくしていることに実は『愛』があるのではないか、と思う方が
ずっと大切な気がしています。
「『愛』っていうのはこういうことさ」
って【作り上げる】のではなく
「『その気持ち』分かるな。」
「『楽しそう』にしていたね。」
「あなたの『おかげ』です。」
例えばそんなふうに
誰かとのあいだにあるさりげないやりとりの中に
「実はこれも愛だった。あれも愛だった」って【気づく】ことの方が
楽だし、喜びもあるし、
正しいことなのではないかと。
そんな気がしています。
少しでも【気づく】ためにどうすればいいか。
少しでも出来ることなら、なんでもいいじゃないか。
今はそんなふうに思います。
南無釈迦牟尼仏 合掌
自分の求める愛を求めているから真実の愛が見えないことがある
愛という言葉を一度忘れてみることで本当の愛が見いだせるでしょう。
一度「こうだろう」と思い込んでしまっているものを手放して再認識してみないと本当の愛というものは分からないものなのです。
自己フィルター、バイアスがかかったセルフな眺めであると真実は見えません。
例えば世界には平和・正義・統一と称して、自分の団体だけの安全の為に他国を侵略しようとする人間がいます。
それは平和・正義・統一という言葉をはき違えています。愛ではありません。人間の我愛。
平和のために戦うぞーという日本の左翼団体と同じように、愛を求めて自分が苦しい、自分が痛い、自分が渇くのであれば、それは愛ではないのです。
愛という言葉は仏教でいうと「ご縁ですね~」ぐらい便利な言葉ですが、実際にその内容を本当に知っている人は少ないんじゃないかと思います。男女の恋愛においても愛という言葉が出てきますが、世間がみんなすぐに別れちゃうもんです。
本当の愛には相手がありません。
なんだかわかりませんが自分も相手も喜ばしくなる愛があるのです。
道元禅師は「理行は一法なり。あまねく自他を利するなり。」と説いておられますが、本当の利となる働きには相手とかこちら側というセコいものがないのです。
人間は都合を立てるから自分の方にばかり良いことが起こるようにして、相手には分けてやるまいというセコさが起こる。
そういうこすからいことではいかんぞ!と道元禅師はおっしゃられるのです。
たとえ経済的にも物質的に文化的にも貧しく、未開と【される(されているだけ)】国であっても、そういう国に住む人たちであっても、きれいな瞳をしている人たちがいる。人に自分の持っているものを分け与えられる人がいる。
外から見れば貧しい、生活が苦しい、とされる人たちでも、心が清らかであり、人に施せる精神性を持っている人たちがおられるのです。なぜでしょうか。
私はこの事実を知ったとき、人間は天上界と言えるようなところに住んでいても、心が貧しければどんなに富を築いても満たされない。その原因は「手に入れるその自己センサー」がくるっているからだと確信しました。
今目の前にあるお茶にもそこには愛がある。
人間の求める愛という形ではない愛が詰まっている。
そこに目を向けてみる。たとえ冷たい麦茶であっても温かい!ということがあるのです。
何か感じ取ってみてください。これも愛。
質問者からのお礼
お二人とも、ご回答有難うございます。
目から鱗が落ちたような気持ちになりました。
愛というものを自分の中で、自分の都合よく捻じ曲げて、捉えていた様に思いました。
幼少期に親との関係が望ましくなく、こう愛されたい、自分を認めて欲しい、愛されたい、愛されたいという我欲で固まっています。
お二人のご回答を参考に、愛というものをときほぐして捉えていきたいと思いました。
本当にありがとうございます。